多神教と一神教:日本人は宗教に無節操なのか?/異なる「神」の概念/針供養とアイボ
- 2018/08/14
- 09:56
今回は「踏ん張り投資」「東京散歩」から離れて、日々思うことのカテゴリで宗教論・文明論についてお話したいと思います。
(神仏習合)
北鎌倉・円覚寺散策(1)で「洪鐘(おおがね)」に「しめ縄」が巻かれている写真をお見せし、お寺の「鐘」と神社の「しめ縄」が融合していると書きました。
また、一般論として、お寺の中に神社が置かれていることがよくあります。
これは日本古来の「神道」と外来の「仏教」が混淆(こんこう)し、一つの信仰体系となった「神仏習合」と言われる平安時代からの現象で、このことは歴史の教科書にも書かれています。
この日本の伝統である「神仏習合」は、日本人の古来からの宗教観が「多神教」であり、その宗教観が現代にも連綿として受け継がれている・・・というのが私の考えです。
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(日本人は宗教に無節操なのか?)
日本人は生まれたときは神社にお宮参り、結婚は流行りのキリスト教、死んだら仏教で葬式・・・このような日本人の行動を見て、
日本人は宗教に無節操だ、チャランポランだ・・・と卑下する日本人が一部にいたりしますが、私は決してそのようなことはない、むしろ宗教への寛容性を示すものだと考えています。
これは、日本人が古来から多神教を信じる民族であり、上で述べた日本人の(宗教について無節操に見える)行動は、日本の伝統である神仏習合の考えと軌を一にする行為だと思っています。
(一神教と多神教)
多神教に基づいているのは日本だけではなく、一神教(主としてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教)以外の、ヒンズー教や仏教、古代ギリシアの神々への信仰などは多神教であり、世界の宗教を見渡せば、多神教のほうが主流だと思います。
ただし、キリスト教の人口(一説には約23億人)とイスラム教の人口(同じく約16億人)を合算すると世界の人口の半分以上を占めるので人口規模としては一神教のほうが多くなりますが・・・
(異なる「神」の概念)
一神教の「神」は人間を遥かに超えた絶対的・超越的な存在ですが(←私はイスラム教、ユダヤ教には詳しくないので、キリスト教の教義から推測しています)、
多神教、少なくとも日本における「神」は、絶対的・超越的な存在ではなく、人間に近い存在で一神教の「神」とはかなり異なると思います。
日本の伝統的な「神」は、一神教の「神」ではなく、「霊(スピリッツ)」に近い存在だと捉えたほうがが分かりやすいと思います。
したがって、欧米人のような一神教文明圏の人たちに、日本人の宗教観を説明するときには、このような「神」の概念の相違から説明しないと話が混乱してきます。
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英語で一神教を「monotheism」、多神教を「polytheism」と言います。
「mono(単一)」、「poly(多数)」に、「theism(有神論)」が付いている言葉ですが、
日本古来の「神」は、唯一神である「God」でなく、複数の「gods」あるいは「spirits」であると説明しないと、話が混乱してきます。
(針供養とアイボ)
このような日本人の宗教観を示すものに、「針供養」があります。
「針供養」は折れたり、錆びたりして使えなくなった「針」を供養して、神社に納める儀式ですが、今でも服飾に関わる業界では行われています。
「針供養」の写真が手元にありませんので、御殿山散策(最終回)で品川神社を訪れた時に撮った包丁を供養する「包丁塚」の写真を下にお示しします。

包丁への感謝とともに、調理された鳥獣魚介、惣菜への慰霊を目的として、この包丁塚が建てられたことが、品川区鮨商環境組合連合会会長名で、碑の裏に書かれています。

その説明文の抜粋は以下のとおりです。
このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念し、ここに縁りの地品川神社の神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い古されし数多包丁を納め、とわにその労を謝すと共に、同じくそれら包丁により調理されし鳥獣魚介の類、はた又惣菜等等を慰霊し(以下略)
(品川区鮨商環境組合連合会会長による包丁塚の説明文より)
「針供養」や「包丁塚」と同じ発想に基づくものとして、ソニーの「アイボ」に関し興味深い記事(DIAMOND online、長内厚氏の記事)がありました。
ハーバードビジネススクールのビジネスケース教材に過去のソニーのAIBOの事例があるのだが、そこでAIBOは失敗事例として描かれ、なぜロボットを愛玩動物に見立てるのかと疑問を呈している。いまだに古いAIBOの修理ビジネスが成り立っていたり、壊れたAIBOのお葬式まで出してしまったりする日本の状況とは、大きく異なる。
この違いは、日本と欧米とのロボットに対する感覚の違いによるものかもしれない。日本では古くから『鉄腕アトム』や『ドラえもん』に代表されるように、ロボットは独立した個性であり、ある種人間と対等な存在として、人間の相棒や友達になっている。
(DIAMOND online、長内厚氏の記事より)
このように、身近なものに「霊」が宿り、それを対等な存在として慈しむ発想は、絶対的・超越的な「神」の下に人間を含めた全てのものが服従するという「一神教」にはない考えだと思います。
最新技術で作られたアイボにも、古来からの伝統が連綿として引き継がれている・・・感慨深いものがあります。
(「大いなるもの」への畏敬の心を持つ)
この身近なものに「霊」が宿り、それを対等な存在として慈しむ考えは、一言で言えば、人間を含む全ての存在を(支配ではなく)統括する「大いなるもの(something great)」への畏敬であると思います。
「恐れ」は恐怖を生み出しますが、「畏れ」は謙遜を生み出し、全てのものに敬意を持って接することを教えます。
「大いなるもの(something great)」への畏敬・尊敬心が日本人の宗教なのかもしれません。
では、この「大いなるもの」は何なのか・・・ということですが、まさに「something(何か)」であって、明確に定義できないし、敢えて定義する必要もないと考えています。
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なお、「東京散歩」をしていると、寺社(キリスト教の教会やイスラム教のモスクも含む)を訪れることが多々ありますが、どのような宗教施設であっても、私は入るときと出るときは必ずお辞儀をして敬意を表するようにしています。
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