北鎌倉・円覚寺散策(1)
- 2018/08/11
- 14:07
JR北鎌倉駅から歩いて1分の距離にある円覚寺(えんがくじ)を散策します。
一つのお寺をテーマにして記事を書くのは今回が初めてで、私にとってはチャレンジになりますが、円覚寺をはじめとして鎌倉のお寺はそれだけ「深くて濃い歴史」があるということだと思います。
なお、この記事を書くまで、私は「えんかくじ」と読んでいましたが、「えんがくじ」と濁音で読むのが正しい読み方です。
☆☆☆
(円覚寺を記事にすることの難しさ)
弘安5年(1282年)の鎌倉時代後半に、北条時宗が元寇による死者を敵味方の区別なく弔うために、中国(当時は宋)から無学祖元(むがくそげん)を開山に招いて建立されました。
境内は山門、仏殿、方丈などがほぼ一直線に並ぶ典型的な宋の禅寺様式です。
円覚寺内には現在19の塔頭(たっちゅう)があります(最盛期には42の塔頭があったそうです)。
塔頭とは高僧の死後、弟子たちが高僧の墓の近くに徳を慕って建てた小庵ですが、年を経るに従い独立し個別の寺院となったものです。
塔頭には檀家がいてお墓もあり、お寺としての機能を有していますが、
歴史があり由緒あるお寺(塔頭)が円覚寺内には19院もあるのですから、円覚寺自体が多くの史蹟やお寺を有する街のようなものと考えてもいいかと思います。
したがって、上で書いたように、「円覚寺」を記事にすることは私にとって非常にチャレンジングで難しいのですが、頑張って書いてみたいと思います。
(参道を分断する横須賀線)
下の写真右は円覚寺内にある地図を拡大したものです。

「白鷺池(びゃくろち)」は円覚寺境内の一部で、円覚寺を創建した無学祖元が、白鷺に姿を代えた神霊がこの池を案内したという故事に因む名前です。
このように、由緒ある「白鷺池」のある境内を無粋にも鉄道(横須賀線)が分断して通っているのは歴史的な理由があります。
軍港のあった横須賀を結ぶ横須賀線が開通したのが明治22年(1889年)ですが、日清戦争が始まった年が明治27年(1894年)です。
このような時代背景の中で、無理やり境内の中に軍事物資などを運ぶ鉄道を引き込んだために、今でも横須賀線が境内を分断する形で、下の写真のように通っています。

(総門)
踏切そばにある階段を登ると「総門」があります。

この総門には「瑞鹿山(ずいろくさん)」の額が掲げられています。

「瑞」は「めでたい」という意味ですので、「瑞鹿山」は「めでたい鹿の山」という意味になります。
なぜ、ここに「鹿」が出てくるのかは、散策をしながら後でご説明します。
なお、「瑞鹿山」のように、お寺には「●●山」という「山号(さんごう)」が付けらますが、中国において寺院は山中に建立されることが多く、所在する山の名前を付与するようになったことに由来するそうです。
(山門)
「総門」をくぐり、拝観料を払って境内に入ります。
なお、境内には食事をするところがないので(食事ができるところは、軽食をとれる「弁天茶屋」のみ)、お寺の外で食事をしたい時は、受付で拝観チケットに判を押してもらえば再入場することができます。
境内に入ると、大きな山門(三門)があります。三門は三解脱門とも呼ばれ、煩悩を取り払って仏殿に入る門と言われています。

中にある敷居が「聖」と「俗」の境界線と言われています。

(仏殿)
「山門(三門)」をさらに進むと、円覚寺の御本尊が祀られている「仏殿」があります。

本尊は冠を被っているので、宝冠釈迦如来と呼ばれています。
関東大震災で倒壊しましたが、元亀4年(1573年)の設計図(指図)に基づいて、前回の東京オリンピックがあった昭和39年(1964年)に再建されました。
鉄筋コンクリート造りで竹中工務店が請け負ったそうです。
(洪鐘)
仏殿東方にある「洪鐘(おおがね)」まで散策します。
「洪鐘」と書いて「おおがね」と呼びますが、これは教わらないと、とても「おおがね」とは発音できませんね。
通常、寺院の読み方は音読み(昔の中国の発音)で、神社は訓読み(日本語としての意味の通じる読み方)で発音します。
例えば、品川には品川寺と品川神社がありますが、品川寺は「ほんせんじ」と音読み、品川神社は「しながわじんじゃ」と訓読みします。(品川神社については、御殿山散策(最終回)を参照してください)
先程ご紹介した「白鷺池」は「びゃくろち」と音読みし、「しらさぎいけ」と訓読みしないのはお寺の伽藍の一部だからと考えられます。
「洪鐘」を「おおがね」と訓読みする理由はよく分かりませんが、神仏習合の考えから来ているのかもしれません。
「洪鐘」の説明板に写真があったのですが、この写真を見ると「鐘」に「しめ縄」が巻かれています。

お寺の「鐘」と神社の「しめ縄」が融合した神仏習合がよく表されている写真です。
話が逸れましたが、下の写真のような急な階段を登っていくと、

「洪鐘(おおがね)」があります。

「洪鐘(おおがね)」は国宝に指定されています。
また、ここには「洪鐘弁財天」と、

「洪鐘弁財天茶屋」があります。

「弁財天茶屋」では軽食が取れます。
また、展望がよく、(私は見れませんでしたが)富士山も見えるそうです。

(方丈)
階段を下って、「方丈」に進みます。

本来は住職が居住する建物を方丈と呼びますが、現在は法要、坐禅会・講演会など多目的に使われています。
この「方丈」の前庭には、無学祖元が植えたとされる「ビャクシン」があります。700年以上の樹齢だと言われています。

また、「勅使門」があります。皇族など特別の客が通る門で、そのため菊の御紋章があります。

(妙香池)
「妙香池(みょうこうち)」に進みます。

ここには「虎頭岩(ことうがん)」という虎の頭に見立てた岩が向こう岸にあります。

写真では分かりにくいかもしれませんが、現場で実際に見ると「虎の頭」に見えます。
(舎利殿)
お釈迦様の歯(仏舎利)を納めていると言われる「舎利殿」です。

尼寺の太平寺の仏殿を移築したものなので、どこか女性的な柔らかさが感じられます。
神奈川県唯一の国宝建造物で、通常は非公開ですが、正月や5月のゴールデンウィーク、11月3日前後などに特別公開されます。
(白鹿洞)
総門に「瑞鹿山」という額が掲げられており、その意味は「めでたい鹿の山」という意味であることを冒頭でご説明しました。
ここでなぜ「鹿」なのか、やっとその意味が分かります。
円覚寺の開祖である無学祖元の法話を聞くために山中から白鹿の群れが出てきて、その法話を聞いたという伝承があり、
この白鹿の群れが出てきた場所がこの「白鹿洞(びゃくろどう)」と言われています。

次回は、円覚寺内の塔頭についてお話します。
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一つのお寺をテーマにして記事を書くのは今回が初めてで、私にとってはチャレンジになりますが、円覚寺をはじめとして鎌倉のお寺はそれだけ「深くて濃い歴史」があるということだと思います。
なお、この記事を書くまで、私は「えんかくじ」と読んでいましたが、「えんがくじ」と濁音で読むのが正しい読み方です。
☆☆☆
(円覚寺を記事にすることの難しさ)
弘安5年(1282年)の鎌倉時代後半に、北条時宗が元寇による死者を敵味方の区別なく弔うために、中国(当時は宋)から無学祖元(むがくそげん)を開山に招いて建立されました。
境内は山門、仏殿、方丈などがほぼ一直線に並ぶ典型的な宋の禅寺様式です。
円覚寺内には現在19の塔頭(たっちゅう)があります(最盛期には42の塔頭があったそうです)。
塔頭とは高僧の死後、弟子たちが高僧の墓の近くに徳を慕って建てた小庵ですが、年を経るに従い独立し個別の寺院となったものです。
塔頭には檀家がいてお墓もあり、お寺としての機能を有していますが、
歴史があり由緒あるお寺(塔頭)が円覚寺内には19院もあるのですから、円覚寺自体が多くの史蹟やお寺を有する街のようなものと考えてもいいかと思います。
したがって、上で書いたように、「円覚寺」を記事にすることは私にとって非常にチャレンジングで難しいのですが、頑張って書いてみたいと思います。
(参道を分断する横須賀線)
下の写真右は円覚寺内にある地図を拡大したものです。

「白鷺池(びゃくろち)」は円覚寺境内の一部で、円覚寺を創建した無学祖元が、白鷺に姿を代えた神霊がこの池を案内したという故事に因む名前です。
このように、由緒ある「白鷺池」のある境内を無粋にも鉄道(横須賀線)が分断して通っているのは歴史的な理由があります。
軍港のあった横須賀を結ぶ横須賀線が開通したのが明治22年(1889年)ですが、日清戦争が始まった年が明治27年(1894年)です。
このような時代背景の中で、無理やり境内の中に軍事物資などを運ぶ鉄道を引き込んだために、今でも横須賀線が境内を分断する形で、下の写真のように通っています。

(総門)
踏切そばにある階段を登ると「総門」があります。

この総門には「瑞鹿山(ずいろくさん)」の額が掲げられています。

「瑞」は「めでたい」という意味ですので、「瑞鹿山」は「めでたい鹿の山」という意味になります。
なぜ、ここに「鹿」が出てくるのかは、散策をしながら後でご説明します。
なお、「瑞鹿山」のように、お寺には「●●山」という「山号(さんごう)」が付けらますが、中国において寺院は山中に建立されることが多く、所在する山の名前を付与するようになったことに由来するそうです。
(山門)
「総門」をくぐり、拝観料を払って境内に入ります。
なお、境内には食事をするところがないので(食事ができるところは、軽食をとれる「弁天茶屋」のみ)、お寺の外で食事をしたい時は、受付で拝観チケットに判を押してもらえば再入場することができます。
境内に入ると、大きな山門(三門)があります。三門は三解脱門とも呼ばれ、煩悩を取り払って仏殿に入る門と言われています。

中にある敷居が「聖」と「俗」の境界線と言われています。

(仏殿)
「山門(三門)」をさらに進むと、円覚寺の御本尊が祀られている「仏殿」があります。

本尊は冠を被っているので、宝冠釈迦如来と呼ばれています。
関東大震災で倒壊しましたが、元亀4年(1573年)の設計図(指図)に基づいて、前回の東京オリンピックがあった昭和39年(1964年)に再建されました。
鉄筋コンクリート造りで竹中工務店が請け負ったそうです。
(洪鐘)
仏殿東方にある「洪鐘(おおがね)」まで散策します。
「洪鐘」と書いて「おおがね」と呼びますが、これは教わらないと、とても「おおがね」とは発音できませんね。
通常、寺院の読み方は音読み(昔の中国の発音)で、神社は訓読み(日本語としての意味の通じる読み方)で発音します。
例えば、品川には品川寺と品川神社がありますが、品川寺は「ほんせんじ」と音読み、品川神社は「しながわじんじゃ」と訓読みします。(品川神社については、御殿山散策(最終回)を参照してください)
先程ご紹介した「白鷺池」は「びゃくろち」と音読みし、「しらさぎいけ」と訓読みしないのはお寺の伽藍の一部だからと考えられます。
「洪鐘」を「おおがね」と訓読みする理由はよく分かりませんが、神仏習合の考えから来ているのかもしれません。
「洪鐘」の説明板に写真があったのですが、この写真を見ると「鐘」に「しめ縄」が巻かれています。

お寺の「鐘」と神社の「しめ縄」が融合した神仏習合がよく表されている写真です。
話が逸れましたが、下の写真のような急な階段を登っていくと、

「洪鐘(おおがね)」があります。


「洪鐘(おおがね)」は国宝に指定されています。
また、ここには「洪鐘弁財天」と、

「洪鐘弁財天茶屋」があります。

「弁財天茶屋」では軽食が取れます。
また、展望がよく、(私は見れませんでしたが)富士山も見えるそうです。

(方丈)
階段を下って、「方丈」に進みます。

本来は住職が居住する建物を方丈と呼びますが、現在は法要、坐禅会・講演会など多目的に使われています。
この「方丈」の前庭には、無学祖元が植えたとされる「ビャクシン」があります。700年以上の樹齢だと言われています。

また、「勅使門」があります。皇族など特別の客が通る門で、そのため菊の御紋章があります。


(妙香池)
「妙香池(みょうこうち)」に進みます。

ここには「虎頭岩(ことうがん)」という虎の頭に見立てた岩が向こう岸にあります。

写真では分かりにくいかもしれませんが、現場で実際に見ると「虎の頭」に見えます。
(舎利殿)
お釈迦様の歯(仏舎利)を納めていると言われる「舎利殿」です。


尼寺の太平寺の仏殿を移築したものなので、どこか女性的な柔らかさが感じられます。
神奈川県唯一の国宝建造物で、通常は非公開ですが、正月や5月のゴールデンウィーク、11月3日前後などに特別公開されます。
(白鹿洞)
総門に「瑞鹿山」という額が掲げられており、その意味は「めでたい鹿の山」という意味であることを冒頭でご説明しました。
ここでなぜ「鹿」なのか、やっとその意味が分かります。
円覚寺の開祖である無学祖元の法話を聞くために山中から白鹿の群れが出てきて、その法話を聞いたという伝承があり、
この白鹿の群れが出てきた場所がこの「白鹿洞(びゃくろどう)」と言われています。


次回は、円覚寺内の塔頭についてお話します。
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