渋谷「百軒店」「円山町」散策:道玄坂地蔵尊/千代田稲荷神社/名曲喫茶ライオン
- 2018/08/08
- 19:31
前回までの渋谷散策で、奥渋谷など渋谷の西側を散策しましたが、今回は渋谷の西側では異質な空間である「百軒店(ひゃっけんだな)」「円山町(まるやまちょう)」を神泉駅から散策してみます。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
渋谷散策(2)で書いた「東電OL殺人事件」の殺害現場となった喜寿荘(神泉駅そば)の裏手にある階段を登って円山町に行きます。
2つの階段が合わさったような、あるいは並行しているような不思議な階段です。

☆☆☆
(道玄坂地蔵尊:東電OL殺人事件で有名になった地蔵尊)
この階段を登って右に行くと、「道玄坂地蔵尊」があります。

宝永3年(1706年)に、道玄坂上に建てられ、円山町の現在地に移されました。
2度の火災で焼け崩されましたが、地蔵の中に元の御本体を固めて、その上に化粧をして再生されました。
このため「火ぶせ地蔵」とも言われています。
この道玄坂地蔵尊が有名になったのは、「東電OL殺人事件」の被害女性が地蔵尊の前で客引きをしていたと言われているためで、地蔵尊の口に紅が引かれているのは、被害女性を供養しているからとも言われています。
上の写真をよく見ると、口に紅が引かれています。
今でもお参りに来る人がいるらしく、きれいな花が供えられていました。
(百軒店の歴史)
風俗街・ラブホテル街となっている円山町から百軒店に入ると、百軒店の歴史を語る説明板がありました。

この説明版によれば、「大正12年(1923年)の関東大震災後、コクド(西部系列)の前身の箱根土地が、購入した中川伯爵(注:旧豊後岡藩主)邸を分譲し、現在で言うところの百貨店を都市空間に再現しようとして計画したのが百軒店である」・・・と書かれています。
百軒店入り口には「しぶや百軒店」と書かれた鳥居風のゲートがあります。

この説明板には書かれていないことを補足すれば、
箱根土地は当時の先進地域であった浅草などから老舗店を招致して街全体を百貨店にしようとしましたが、当時の渋谷に来る客は安サラリーマンや下級兵卒が多かったため、結局商売が成り立たなくなり、老舗店は去っていったとのことです。
(千代田稲荷神社)(百軒店児童遊園地)
現在のような風俗エリアに似つかわしくない空間がこの近辺の百軒店には2箇所あります。
一つは「千代田稲荷神社」です。

「千代田稲荷神社」の由緒は古く、長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城した際、江戸城内に京都の伏見稲荷を勧進したのが創始となります。
つまり、当初は江戸城内にあったのですが、徳川家康が江戸城を拡張した際に、渋谷宮益坂に遷座し、江戸城の別名をとって「千代田稲荷」と称しました。
その後、関東大震災、戦災を経て現在の地に移りました。
この「千代田稲荷神社」は渋谷の長期にわたる変遷を見てきたわけです。
もう一つは「百軒店児童遊園地」です。

とても小さな児童遊園地で、周りの環境を見てもとても子供が遊べる雰囲気ではないので疑問に思ったのですが、
このような児童遊園地の周辺では風俗営業の出店ができない法律(風俗営業等の規制及び業務の適正化に関する法律)があるので、
風俗店の新規出店を規制するためにこの児童遊園地を設置したと思われます。
なお、円山町には、この「百軒店児童遊園地」よりも大きな児童遊園地(円山児童遊園地)が置かれています。
(名曲喫茶ライオン)
昔はあちこちにありましたが、今では絶滅危惧種のようになった「名曲喫茶」が百軒店にあります。
「名曲喫茶ライオン」です。

名曲喫茶とはWikipediaによれば、
と書かれています。
今ではインターネットで簡単に音楽がダウンロードできますが、
名曲喫茶が流行っていた時代には、その瞬間を逃すと、その音楽を次はいつ聞けるチャンスがあるのか分からないので、一瞬一瞬を集中して聞いていたような時代でした。
「名曲喫茶ライオン」は、昭和元年(1926年)創業の老舗で、クラシック音楽を特注の3Dスピーカーで聞けるそうです。
私はまだ入ったことはないですが、午後3時と7時に、丁寧な説明付きの“定時コンサート”があるそうですので、機会があれば行ってみたいと思っています。
(不自然な凹地)
最後に百軒店にある不自然な凹地について書いてみます。
これは、急峻な坂道であった道玄坂の傾斜を削って、緩やかな坂道にした痕跡です。

これで、百軒店・円山町を含めた渋谷散策を終わります。
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渋谷散策(2)で書いた「東電OL殺人事件」の殺害現場となった喜寿荘(神泉駅そば)の裏手にある階段を登って円山町に行きます。
2つの階段が合わさったような、あるいは並行しているような不思議な階段です。

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(道玄坂地蔵尊:東電OL殺人事件で有名になった地蔵尊)
この階段を登って右に行くと、「道玄坂地蔵尊」があります。


宝永3年(1706年)に、道玄坂上に建てられ、円山町の現在地に移されました。
2度の火災で焼け崩されましたが、地蔵の中に元の御本体を固めて、その上に化粧をして再生されました。
このため「火ぶせ地蔵」とも言われています。
この道玄坂地蔵尊が有名になったのは、「東電OL殺人事件」の被害女性が地蔵尊の前で客引きをしていたと言われているためで、地蔵尊の口に紅が引かれているのは、被害女性を供養しているからとも言われています。
上の写真をよく見ると、口に紅が引かれています。
今でもお参りに来る人がいるらしく、きれいな花が供えられていました。
(百軒店の歴史)
風俗街・ラブホテル街となっている円山町から百軒店に入ると、百軒店の歴史を語る説明板がありました。

この説明版によれば、「大正12年(1923年)の関東大震災後、コクド(西部系列)の前身の箱根土地が、購入した中川伯爵(注:旧豊後岡藩主)邸を分譲し、現在で言うところの百貨店を都市空間に再現しようとして計画したのが百軒店である」・・・と書かれています。
百軒店入り口には「しぶや百軒店」と書かれた鳥居風のゲートがあります。

この説明板には書かれていないことを補足すれば、
箱根土地は当時の先進地域であった浅草などから老舗店を招致して街全体を百貨店にしようとしましたが、当時の渋谷に来る客は安サラリーマンや下級兵卒が多かったため、結局商売が成り立たなくなり、老舗店は去っていったとのことです。
(千代田稲荷神社)(百軒店児童遊園地)
現在のような風俗エリアに似つかわしくない空間がこの近辺の百軒店には2箇所あります。
一つは「千代田稲荷神社」です。


「千代田稲荷神社」の由緒は古く、長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城した際、江戸城内に京都の伏見稲荷を勧進したのが創始となります。
つまり、当初は江戸城内にあったのですが、徳川家康が江戸城を拡張した際に、渋谷宮益坂に遷座し、江戸城の別名をとって「千代田稲荷」と称しました。
その後、関東大震災、戦災を経て現在の地に移りました。
この「千代田稲荷神社」は渋谷の長期にわたる変遷を見てきたわけです。
もう一つは「百軒店児童遊園地」です。


とても小さな児童遊園地で、周りの環境を見てもとても子供が遊べる雰囲気ではないので疑問に思ったのですが、
このような児童遊園地の周辺では風俗営業の出店ができない法律(風俗営業等の規制及び業務の適正化に関する法律)があるので、
風俗店の新規出店を規制するためにこの児童遊園地を設置したと思われます。
なお、円山町には、この「百軒店児童遊園地」よりも大きな児童遊園地(円山児童遊園地)が置かれています。
(名曲喫茶ライオン)
昔はあちこちにありましたが、今では絶滅危惧種のようになった「名曲喫茶」が百軒店にあります。
「名曲喫茶ライオン」です。


名曲喫茶とはWikipediaによれば、
名曲喫茶が登場・浸透し出したのは、クラシックのレコードが高価で個人では購入が難しかった時代(1950年代~1960年代頃まで)で、全盛期の1960年代以降は急減し、滅多に見かけなくなった
(Wikipediaより)
と書かれています。
今ではインターネットで簡単に音楽がダウンロードできますが、
名曲喫茶が流行っていた時代には、その瞬間を逃すと、その音楽を次はいつ聞けるチャンスがあるのか分からないので、一瞬一瞬を集中して聞いていたような時代でした。
「名曲喫茶ライオン」は、昭和元年(1926年)創業の老舗で、クラシック音楽を特注の3Dスピーカーで聞けるそうです。
私はまだ入ったことはないですが、午後3時と7時に、丁寧な説明付きの“定時コンサート”があるそうですので、機会があれば行ってみたいと思っています。
(不自然な凹地)
最後に百軒店にある不自然な凹地について書いてみます。
これは、急峻な坂道であった道玄坂の傾斜を削って、緩やかな坂道にした痕跡です。

これで、百軒店・円山町を含めた渋谷散策を終わります。