浅草橋→神田散策(最終回):柳森神社/万世橋駅跡/マーチエキュート神田万世橋/筋違門跡
- 2018/07/31
- 17:54
前回の浅草橋→神田散策(2)では、神田にあるレトロな建物たちを見てきました。
今回は、「浅草橋→神田散策」の最終回となりますが、まず、「おたぬきさん」と呼ばれる柳森神社(やなぎもりじんじゃ)から散策します。
☆☆☆
(柳森神社)
さて、このレトロな看板建築の向かい側に「柳森神社」があります。

太田道灌によって江戸城の鬼門除けとして創建されたと言われ、
椙森神社(すぎのもりじんじゃ、中央区日本橋堀留町)、烏森神社(からすもりじんじゃ、港区新橋)とともに江戸三森の一つとされています。
この神社に入ると、「タヌキの像」があり、

神社の両脇には狐や狛犬ではなくて「(狛?)タヌキ」が置かれています。

「えっ、、、神社なのにタヌキ???」と驚かれると思いますが、これにも理由があります。
五大将軍綱吉の生母は桂昌院(けいしょういん)ですが、桂昌院は京都の八百屋の娘で、三代将軍家光の側室となりました。
八百屋の娘が側室になり、将軍の生母になったわけですから大変な出世です。
その桂昌院が江戸城内に「福寿稲荷」を創建し、その後、この「福寿稲荷」は向柳原の旗本瓦林邸内に移され、明治維新の際に現在の柳森神社に合祀されました。
大奥の女中などから、桂昌院の「玉の輿」の福徳にあやかりたいと崇拝され、
その間、「玉の輿」の願掛けから「他を抜いて(玉の輿に乗った)」=「タヌキ」という意味を持たせて、「おたぬきさん」の呼び名で親しまれ、出世の神、諸願成就のご利益を求めて参拝されるようになったということです。
柳森神社はさほど大きくない神社ですが、他にも見どころがあります。下の写真は若者たちが力試しに用いたと言われる「力石」で、13個もの力石が置かれています。

また、富士講関係の石碑群もあり江戸時代の信仰の一端を見ることができます。

(万世橋)
柳森神社のすぐ先に「万世橋」がありますが、「万世橋」の手前で「肉の万世」の看板が見えてきました。

「肉の万世」は万世橋に由来するのかと思い、調べましたら、やはりそうでした。Wikipediaにはっきりと、
と書かれていました。さらに、
と書かれていました。
なんと! 「肉の万世」は元々は秋葉原にある電気関係のお店だったんですね。
「肉の万世」を通りすぎると、「万世橋」が見えてきました。

(万世橋駅跡:お洒落カフェ)
今はなくなった万世橋駅が開業したのは、明治45年(1912年)です。江戸時代からこの万世橋界隈は繁栄しており、明治時代になっても飲食店、寄席、映画館が開業し発展しました。
この繁栄している地区に万世橋駅が開業したのですが、東京駅を設計した辰野金吾が万世橋駅を設計したことからも分かるように、東京の主要駅として万世橋駅が建てられました。
万世橋駅跡地に、江戸時代、明治・大正時代、昭和・平成時代の絵(写真左)とともに、当時の駅の様子(写真右)が展示されています。

この万世橋駅は関東大震災で焼失し、簡易な駅舎が再建されましたが、主要駅としての機能はなくなり、交通博物館に併設され、ついに駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊されました。
今はお洒落な商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として再生しています。

ここには、万世橋駅舎の基礎部分が道路上から見えるようになっていたり、

建物の中には明治時代に使われた階段がそのまま残されていたりと遺構の展示にも力を入れています。

ホームのあった場所にも上がれて、そこでは電車が実際に走っています。

「まんせいばし」の駅名は実際の駅名をそっくり写し取り、手書きで書いたものだそうです。

ここにはカフェもあるので、電車好きの人にはたまらない場所ではないでしょうか。
(筋違門跡)
赤レンガの横の通りに、「筋違門跡」の説明板があります。

徳川将軍が上野寛永寺の参詣と日光東照宮への社参の際に通った門であることが書かれています。
これで、浅草橋→神田散策シリーズを終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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今回は、「浅草橋→神田散策」の最終回となりますが、まず、「おたぬきさん」と呼ばれる柳森神社(やなぎもりじんじゃ)から散策します。
☆☆☆
(柳森神社)
さて、このレトロな看板建築の向かい側に「柳森神社」があります。

太田道灌によって江戸城の鬼門除けとして創建されたと言われ、
椙森神社(すぎのもりじんじゃ、中央区日本橋堀留町)、烏森神社(からすもりじんじゃ、港区新橋)とともに江戸三森の一つとされています。
この神社に入ると、「タヌキの像」があり、


神社の両脇には狐や狛犬ではなくて「(狛?)タヌキ」が置かれています。

「えっ、、、神社なのにタヌキ???」と驚かれると思いますが、これにも理由があります。
五大将軍綱吉の生母は桂昌院(けいしょういん)ですが、桂昌院は京都の八百屋の娘で、三代将軍家光の側室となりました。
八百屋の娘が側室になり、将軍の生母になったわけですから大変な出世です。
その桂昌院が江戸城内に「福寿稲荷」を創建し、その後、この「福寿稲荷」は向柳原の旗本瓦林邸内に移され、明治維新の際に現在の柳森神社に合祀されました。
大奥の女中などから、桂昌院の「玉の輿」の福徳にあやかりたいと崇拝され、
その間、「玉の輿」の願掛けから「他を抜いて(玉の輿に乗った)」=「タヌキ」という意味を持たせて、「おたぬきさん」の呼び名で親しまれ、出世の神、諸願成就のご利益を求めて参拝されるようになったということです。
柳森神社はさほど大きくない神社ですが、他にも見どころがあります。下の写真は若者たちが力試しに用いたと言われる「力石」で、13個もの力石が置かれています。

また、富士講関係の石碑群もあり江戸時代の信仰の一端を見ることができます。

(万世橋)
柳森神社のすぐ先に「万世橋」がありますが、「万世橋」の手前で「肉の万世」の看板が見えてきました。

「肉の万世」は万世橋に由来するのかと思い、調べましたら、やはりそうでした。Wikipediaにはっきりと、
屋号の「万世」は本店近くにかけられた万世橋に由来する
(Wikipediaより)
と書かれていました。さらに、
株式会社万世は、戦後開業した電機部品商・鹿野無線が母体。ドッジ・ライン不況の1949年に精肉・コロッケ商「万世」へ業種転換し、秋葉原電気街では異色の大型飲食店として成功する。
(Wikipediaより)
と書かれていました。
なんと! 「肉の万世」は元々は秋葉原にある電気関係のお店だったんですね。
「肉の万世」を通りすぎると、「万世橋」が見えてきました。

(万世橋駅跡:お洒落カフェ)
今はなくなった万世橋駅が開業したのは、明治45年(1912年)です。江戸時代からこの万世橋界隈は繁栄しており、明治時代になっても飲食店、寄席、映画館が開業し発展しました。
この繁栄している地区に万世橋駅が開業したのですが、東京駅を設計した辰野金吾が万世橋駅を設計したことからも分かるように、東京の主要駅として万世橋駅が建てられました。
万世橋駅跡地に、江戸時代、明治・大正時代、昭和・平成時代の絵(写真左)とともに、当時の駅の様子(写真右)が展示されています。


この万世橋駅は関東大震災で焼失し、簡易な駅舎が再建されましたが、主要駅としての機能はなくなり、交通博物館に併設され、ついに駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊されました。
今はお洒落な商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として再生しています。

ここには、万世橋駅舎の基礎部分が道路上から見えるようになっていたり、

建物の中には明治時代に使われた階段がそのまま残されていたりと遺構の展示にも力を入れています。

ホームのあった場所にも上がれて、そこでは電車が実際に走っています。

「まんせいばし」の駅名は実際の駅名をそっくり写し取り、手書きで書いたものだそうです。

ここにはカフェもあるので、電車好きの人にはたまらない場所ではないでしょうか。
(筋違門跡)
赤レンガの横の通りに、「筋違門跡」の説明板があります。

徳川将軍が上野寛永寺の参詣と日光東照宮への社参の際に通った門であることが書かれています。
これで、浅草橋→神田散策シリーズを終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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