御殿山散策(1):城南五山/八ツ山橋/開東閣/旧吉川英治邸/翡翠原石館
- 2018/07/23
- 08:36
以前のブログ記事旧島津公爵邸(清泉女子大学本館):城南五山に残された邸宅で城南五山について次のように書きました。
「御殿山」は、室町時代には太田道灌の館があったと伝えられ、江戸時代には将軍が鷹狩の休憩所として使った御殿があったことからこの名前が付けられました。
今回はこの城南五山の一つである「御殿山」界隈を散策します。
(品川駅から出発)
散策の出発拠点である品川駅から出発します(品川駅については、品川駅の謎を解く(1)を参照してください)
品川駅高輪口を出て左に曲がり、しばらく歩くと、「八ツ山橋」に着きます。

この「八ツ山橋」は日本最初の鉄道陸橋です。また、「初代ゴジラが壊した橋」としても有名だそうです(笑
この橋を渡ってみましょう。下に東海道新幹線を始めとする多くの鉄道が走っています。
橋を渡ると風格を感じさせる八ツ山橋の親柱と欄干があります。

「八ツ山橋」は、明治5年(1872年)に、新橋~横浜間の鉄道開設に伴って造られた橋です。初代の橋は木造でしたが、大正3年(1914年)に鉄橋のアーチ橋となりました。その当時の親柱と欄干が保存されて残っています。
さらに進むと、「東海道品川宿まち歩きマップ」という看板があります。

ここから先は旧東海道で、歴史ある寺社や昭和の雰囲気を残す街並みが味わえますが、今回は「御殿山」散策が目的ですので、ここまでとして引き返します。
(開東閣)
八ツ山通りを渡って、緩やかな坂を登っていくと、右手に「開東閣」があります。

三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の別邸で、現在は三菱グループの迎賓館となっていて一般公開はされていません。設計者は、三菱一号館や旧島津公爵邸を設計したジョサイア・コンドルです。
元々この場所は、水口藩加藤家下屋敷で、それを伊藤博文が買い取り、最終的に三菱グループの所有となりました。
伊藤博文といえば、尊王攘夷運動をしていた若い頃、御殿山で建設中の英国公使館を焼き討ちしたり、品川宿の遊女屋へ通いつめていたことで知られていますが、晩年になって若い頃の思い出の地に邸宅を建てたことになります。
さらに進むと、御殿山交番前に着きます。

御殿山交番脇の細い道を右に曲がると、港区の尾根道を歩く(1)でご紹介した「二本榎通り」につながります。
「開東閣」を含めこの北側一帯(港区側)は「八ツ山」と呼ばれ、城南五山の一つです。
(御殿山)
「八ツ山」には行かず、通りを渡ると「御殿山」地区です。このあたりは「御殿山」を冠するマンションが数え切れないほどあります。「御殿山」が高級住宅街のブランドになっていることがよく分かります。
信号を渡って右に曲がると、下の写真のような説明板があります。このあたりは旧因幡鳥取藩跡であるとの説明が書かれています。

この説明板の数メートル先に細い道があるので、そこを左に曲がります。
その道路の左側に、ここの町内会が作ったと思われる地図がありました。

「御成門通り」「御殿山本通り」「二條通り」「三條通り」など歴史の古さを思わせる通りの名前が書かれています。
さらに進むと、下の写真のようなレトロな家があります。

この家は「宮本武蔵」「新平家物語」などの小説を書いた「旧吉川英治邸」と思われます。しかし、説明板がなく、個人の方が住んでいるようなので確かめられませんでしたが、たまたま会った地元の方に聞くと「そうだと聞いている」とのことでした。
さらに行くと、「翡翠原石館」があります。日本唯一の翡翠(ヒスイ)専門の博物館で、館長が30年かけて収集した翡翠を展示しているそうです。

次回はさらに御殿山界隈を散策します。
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「目黒区と品川区の間、目黒川を南に臨む高台一帯を「城南五山」と呼ぶことがあります。いずれも都内屈指の高級住宅地区で、あたかも山を連想させる5つの高台が品川駅から目黒駅まで続いています。」
「御殿山」は、室町時代には太田道灌の館があったと伝えられ、江戸時代には将軍が鷹狩の休憩所として使った御殿があったことからこの名前が付けられました。
今回はこの城南五山の一つである「御殿山」界隈を散策します。
(品川駅から出発)
散策の出発拠点である品川駅から出発します(品川駅については、品川駅の謎を解く(1)を参照してください)
品川駅高輪口を出て左に曲がり、しばらく歩くと、「八ツ山橋」に着きます。

この「八ツ山橋」は日本最初の鉄道陸橋です。また、「初代ゴジラが壊した橋」としても有名だそうです(笑
この橋を渡ってみましょう。下に東海道新幹線を始めとする多くの鉄道が走っています。
橋を渡ると風格を感じさせる八ツ山橋の親柱と欄干があります。

「八ツ山橋」は、明治5年(1872年)に、新橋~横浜間の鉄道開設に伴って造られた橋です。初代の橋は木造でしたが、大正3年(1914年)に鉄橋のアーチ橋となりました。その当時の親柱と欄干が保存されて残っています。
さらに進むと、「東海道品川宿まち歩きマップ」という看板があります。

ここから先は旧東海道で、歴史ある寺社や昭和の雰囲気を残す街並みが味わえますが、今回は「御殿山」散策が目的ですので、ここまでとして引き返します。
(開東閣)
八ツ山通りを渡って、緩やかな坂を登っていくと、右手に「開東閣」があります。

三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の別邸で、現在は三菱グループの迎賓館となっていて一般公開はされていません。設計者は、三菱一号館や旧島津公爵邸を設計したジョサイア・コンドルです。
元々この場所は、水口藩加藤家下屋敷で、それを伊藤博文が買い取り、最終的に三菱グループの所有となりました。
伊藤博文といえば、尊王攘夷運動をしていた若い頃、御殿山で建設中の英国公使館を焼き討ちしたり、品川宿の遊女屋へ通いつめていたことで知られていますが、晩年になって若い頃の思い出の地に邸宅を建てたことになります。
さらに進むと、御殿山交番前に着きます。

御殿山交番脇の細い道を右に曲がると、港区の尾根道を歩く(1)でご紹介した「二本榎通り」につながります。
「開東閣」を含めこの北側一帯(港区側)は「八ツ山」と呼ばれ、城南五山の一つです。
(御殿山)
「八ツ山」には行かず、通りを渡ると「御殿山」地区です。このあたりは「御殿山」を冠するマンションが数え切れないほどあります。「御殿山」が高級住宅街のブランドになっていることがよく分かります。
信号を渡って右に曲がると、下の写真のような説明板があります。このあたりは旧因幡鳥取藩跡であるとの説明が書かれています。

この説明板の数メートル先に細い道があるので、そこを左に曲がります。
その道路の左側に、ここの町内会が作ったと思われる地図がありました。

「御成門通り」「御殿山本通り」「二條通り」「三條通り」など歴史の古さを思わせる通りの名前が書かれています。
さらに進むと、下の写真のようなレトロな家があります。

この家は「宮本武蔵」「新平家物語」などの小説を書いた「旧吉川英治邸」と思われます。しかし、説明板がなく、個人の方が住んでいるようなので確かめられませんでしたが、たまたま会った地元の方に聞くと「そうだと聞いている」とのことでした。
さらに行くと、「翡翠原石館」があります。日本唯一の翡翠(ヒスイ)専門の博物館で、館長が30年かけて収集した翡翠を展示しているそうです。

次回はさらに御殿山界隈を散策します。
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