蔵前→浅草橋散策(最終回):花街の面影/石塚稲荷神社/柳橋/亀清楼/浅草見附跡
- 2018/07/13
- 08:34
前回の蔵前→浅草橋散策(4)では、榊神社まで行きました。
最終回の今回は柳橋を通って浅草橋まで行きます。
☆☆☆
(お洒落カフェ)
榊神社を後にして、隅田川横の道を南に歩くと、写真のようなお洒落カフェ(ルーサイトカフェ)があります。

テレビでも紹介されたことがあるお店ですが、このお店のHPによれば、昭和の流行歌手『市丸』の屋敷を改装したものだそうです。
「市丸」について調べたところ、小唄・長唄だけでなく民謡・歌謡曲など幅広いレパートリーを持った歌手で、首相を務めた近衛文麿の愛人だったそうです。
(花街の面影)
このあたりの柳橋界隈は江戸中期からの古い花街がありました。
「柳新二強(りゅうしん二強)」という言葉があります。つまり、新橋の花街と柳橋の花街が最も華やかな花街だったことを指す言葉ですが、新橋の花街は新興の花街であったため、この柳橋の方がはるかにランクが高かったそうです。
この界隈に「石塚稲荷神社」がありますが、

ここの玉垣(瑞垣(みずがき))には寄進した「柳橋藝妓組合」の名や伊藤博文が利用したという有名な料亭「亀清楼」の名前がありました。

この華やかだった柳橋の花街は昭和39年(1964年)の東京オリンピック以降、急速に衰退していきます。
その理由として、①隅田川の汚染が進み悪臭が漂ったこと、②蔵前→浅草橋散策(2)で説明した「カミソリ堤防」によって景観が遮断されたことによるそうです。
下の写真は、最後まで残った料亭「いな垣」跡から撮った写真ですが、確かにカミソリ堤防が景観を遮断しています。

(老舗寿司屋)
「石塚稲荷神社」を少し進んで右に曲がると写真のお寿司屋さんがあります。

創業200年の老舗の寿司屋です。
(柳橋)
さらに進むと写真のような立派な橋があります。神田川に架かる「柳橋」で関東大震災後の復興事業の一つです。柳橋の町名の由来にもなっています。

柳橋の左で神田川が隅田川に合流しています。

橋梁には「かんざし」のレリーフがあります。これも、花街であったことを物語る粋なレリーフです。

橋の袂には、近代的なビルになった「亀清楼」があります。

「亀清楼」は伊藤博文が利用した料亭だと書きましたが、国技館に近いこともあり相撲とも縁が深く大相撲横綱審議会が行われる料亭でもあります。
現在はビルを高層化しているそうで休業予定の説明書きがありました。

また、神田川沿いには、このような船宿があります。

老舗の甘味処もあります。

花街では、①甘味処、②銭湯、③見番の3つが付き物と言われますが、このような甘味処も花街の面影かもしれません。
(浅草橋)
神田川に沿って上流に進むと目的地の浅草橋です。下の写真は浅草橋から撮った乗り合い船です。カラフルできれいですね。

浅草橋は神田川に架かった橋ですが、この神田川は江戸城の外堀の役目を果たしていました。このため、敵からの侵入を防ぐため「見附」が置かれました。その「浅草見附跡」の碑が置かれています。

「見附」は敵からの侵入を防ぐためのものですので、江戸城側つまり浅草橋を渡った南側の向こう岸にあったのですが、この「浅草見附跡」の碑は北側に置かれています。
南側の交番横には「出土した石垣石」が置かれていました。

なお、「浅草見附跡」があった場所はこの交番あたりと考えられますが、江戸時代も現代も警察組織が同じ場所に置かれていて興味深いです。
同様の例は他でも見られますが、このような歴史の痕跡を探すのが「東京散歩」の醍醐味です。
これで「蔵前→浅草橋」シリーズを終わります。長い間お読みいただきありがとうございました。
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最終回の今回は柳橋を通って浅草橋まで行きます。
☆☆☆
(お洒落カフェ)
榊神社を後にして、隅田川横の道を南に歩くと、写真のようなお洒落カフェ(ルーサイトカフェ)があります。

テレビでも紹介されたことがあるお店ですが、このお店のHPによれば、昭和の流行歌手『市丸』の屋敷を改装したものだそうです。
「市丸」について調べたところ、小唄・長唄だけでなく民謡・歌謡曲など幅広いレパートリーを持った歌手で、首相を務めた近衛文麿の愛人だったそうです。
(花街の面影)
このあたりの柳橋界隈は江戸中期からの古い花街がありました。
「柳新二強(りゅうしん二強)」という言葉があります。つまり、新橋の花街と柳橋の花街が最も華やかな花街だったことを指す言葉ですが、新橋の花街は新興の花街であったため、この柳橋の方がはるかにランクが高かったそうです。
この界隈に「石塚稲荷神社」がありますが、

ここの玉垣(瑞垣(みずがき))には寄進した「柳橋藝妓組合」の名や伊藤博文が利用したという有名な料亭「亀清楼」の名前がありました。


この華やかだった柳橋の花街は昭和39年(1964年)の東京オリンピック以降、急速に衰退していきます。
その理由として、①隅田川の汚染が進み悪臭が漂ったこと、②蔵前→浅草橋散策(2)で説明した「カミソリ堤防」によって景観が遮断されたことによるそうです。
下の写真は、最後まで残った料亭「いな垣」跡から撮った写真ですが、確かにカミソリ堤防が景観を遮断しています。

(老舗寿司屋)
「石塚稲荷神社」を少し進んで右に曲がると写真のお寿司屋さんがあります。

創業200年の老舗の寿司屋です。
(柳橋)
さらに進むと写真のような立派な橋があります。神田川に架かる「柳橋」で関東大震災後の復興事業の一つです。柳橋の町名の由来にもなっています。

柳橋の左で神田川が隅田川に合流しています。

橋梁には「かんざし」のレリーフがあります。これも、花街であったことを物語る粋なレリーフです。


橋の袂には、近代的なビルになった「亀清楼」があります。

「亀清楼」は伊藤博文が利用した料亭だと書きましたが、国技館に近いこともあり相撲とも縁が深く大相撲横綱審議会が行われる料亭でもあります。
現在はビルを高層化しているそうで休業予定の説明書きがありました。

また、神田川沿いには、このような船宿があります。

老舗の甘味処もあります。

花街では、①甘味処、②銭湯、③見番の3つが付き物と言われますが、このような甘味処も花街の面影かもしれません。
(浅草橋)
神田川に沿って上流に進むと目的地の浅草橋です。下の写真は浅草橋から撮った乗り合い船です。カラフルできれいですね。

浅草橋は神田川に架かった橋ですが、この神田川は江戸城の外堀の役目を果たしていました。このため、敵からの侵入を防ぐため「見附」が置かれました。その「浅草見附跡」の碑が置かれています。

「見附」は敵からの侵入を防ぐためのものですので、江戸城側つまり浅草橋を渡った南側の向こう岸にあったのですが、この「浅草見附跡」の碑は北側に置かれています。
南側の交番横には「出土した石垣石」が置かれていました。

なお、「浅草見附跡」があった場所はこの交番あたりと考えられますが、江戸時代も現代も警察組織が同じ場所に置かれていて興味深いです。
同様の例は他でも見られますが、このような歴史の痕跡を探すのが「東京散歩」の醍醐味です。
これで「蔵前→浅草橋」シリーズを終わります。長い間お読みいただきありがとうございました。
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