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田園調布界隈を歩く(2):東京35区・宝来公園・国分寺崖線

前回の田園調布界隈を歩く(1)では、「大森区」の表札の話をしました。
大森区の表札


なぜ「大区」なのか、その謎解きから始めてみます。
☆☆☆



(東京35区)

今では東京23区は当たり前のことになっていますが、実は23区制度は比較的新しい歴史を持つ制度です。

江戸から東京になってから、東京が現在の形に落ち着くまでは変遷に次ぐ変遷がありました。これを詳しく書いていくと一冊の本になるぐらいの分量ですので、23区になる直近のことから話を進めます。

前回お話したように、大正12年(1923年)の関東大震災は東京に大きな影響を及ぼしました。震災後多くの人々が西に(つまり武蔵野台地に)移り住み、都市化した地域が新たに東京市に編入され、区の数は35区になりました。

そして、35区が再編成され23区になったのは戦後の昭和22年(1947年)です。

その背景には、太平洋戦争による空襲・出兵・疎開などによる人口の激減があります。人口の激減によって各区の運営が難しい状況になり、35区が整理統合され23区になりました。

港区白金・広尾・プラチナ通りを歩く(1)で港区は芝区・赤坂区・麻布区が合併してできた区だと書きましたが、その合併はこの時期に行われました。

同時期に、大田区は「大森区」と「蒲田区」の合併でできました。「大森区」の「大」と「蒲田区」の「田」を合成して「大田区」になったわけです。

「大田区」と書く時、点の付く「田区」なのか、点の付かない「田区」なのか迷うことがありますが、大田区は「大森区」に由来する歴史がわかっていれば迷う必要はなくなりますね。

「大森区」の表札を見ると、今でも「大森区」に愛着を感じる人たちがいるのかな、と思います。


(宝来公園)

さて、田園調布の南西に位置する「宝来公園」に進みます。
宝来公園


自然林を生かし、武蔵野の面影を残す閑静な公園です。公園としての歴史は古く、大正14年(1925年)に田園調布を開発した田園都市株式会社が田園調布を整備したときに作った公園です。

この公園の池に写真のようなスロープがありました。このスロープは何のためにあるのでしょうか?
このスロープは何のため?


洗濯をするためでもなく、池に入るためのスロープでもありません。池で育ったオタマジャクシがカエルになったときに、子ガエルが無事に陸地までたどり着けるように作ったスロープだそうです。

誰のアイデアか分かりませんが、素晴らしいアイデアだと思います。子どもたちに命の大切さを何百回説くよりも効果のある素晴らしいアイデアです。


(国分寺崖線)

この宝来公園を後にして坂道を登って行きます。

途中に、魚料理のお店がありました。前回の本屋さんや蕎麦屋さんと同じく、高級住宅街に突然現れるお店です。田園調布界隈を散策してお腹が空いたときに入るのにいい料理店だと思います。
田園調布 魚料理店


さらに歩いていくと、突然展望が開ける光景に出くわします。多摩川の向こうに見える高層ビルは武蔵小杉の高層マンションです。
国分寺崖線 展望


ここに立つと私たちが国分寺崖線(こくぶんじがいせん)の縁(ヘリ)に立っていることがよく分かります。

田園調布・二子玉川・深大寺・国分寺など多摩川の縁(ヘリ)では自然が保たれており、このような武蔵野の面影を残す国分寺崖線の散策は楽しいものです。

そこで、国分寺崖線とはどういうものか次回でご説明します。(続きます)

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プロフィール

カツQ

Author:カツQ
リタイアして8年です。会社勤めの時にはなかなか作れなかった自由な時間を得て、主に東京散歩と株式投資で過ごしています(加えて、家事手伝いも)。
東京散歩は健康維持も兼ねながら、歴史や地形・古道・暗渠を通して見た街角散歩をしています。東京の奥深さを少しでも伝えたいと思っています。
投資家としては、ファンダメンタル分析がろくにできず、メンタルも弱いダメ投資家ですが、踏ん張って自分なりの投資(損切りしない株式投資)のやり方を探しています。

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