砧線・廃線跡散策(最終回)~二子玉川散策(再訪)番外編
- 2023/05/08
- 09:07
砧線跡を辿って「玉電と郷土の資料館」まで散策しました。
今回は「砧線跡散策シリーズ」の最終回として、終着駅の砧本村まで散策します。
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「二子玉川散策(再訪)シリーズ」(7回にわたり掲載)の番外編として以下の3つのシリーズがあります。
(1)「二子新地散策シリーズ」(4回にわたり掲載)
(2)『「芸能人の自宅」と「旧玉川村」を探訪~等々力散策シリーズ』(2回にわたって掲載)
(3)「東急砧線の廃線跡散策シリーズ」(本記事のシリーズ。3回にわたり掲載)
参考記事:「世田谷線の旅シリーズ」(10回にわたって掲載)
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(※)廃線跡、花街など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
(※)その他のカテゴリとしては以下のものがあります(投資関係を除く)。
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(タイル、マンホール、ベンチなど)
砧線跡の歩道は平成元年(1989年)2月につくられました。
その記念碑が歩道脇に置かれています。
また、砧線跡の歩道を歩いていると
砧線を描いた美しいマンホールや
タイルがあり、
鉄道関連の素材で作ったと思われるベンチや柵があります。
ただし、前回の記事で訪れた「玉電と郷土の歴史館」の大塚館長によれば、ベンチや柵の素材は砧線の素材ではなくレプリカだそうです。
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(吉沢駅に向かう)
しばらく歩いていくと、レールをデザインした歩道がなくなり、普通のきれいな歩道になります。
その先は大きな通り(多摩堤通り)に交差します。
地図で示すと「▲現在地」と示された場所が、現在私たちのいる場所になります。
「吉沢」の地名は、現在ではバス停の名前や電柱のプレートに残されています。
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(東急の社紋が刻印された境界石)
大通りを渡ると、この辺りが2番目の駅である「吉沢駅」があった場所で、
東急の社紋が刻印された標柱(境界石)が3つ残されています。
1つは交差点の角にある境界石で、
東急の社紋が刻まれています。
2つ目と3つ目は道路を挟んだ向かい側にあり、
これらも東急の社紋が刻まれています。当時は黄色のペンキが塗られていたようです。
3つ目の境界石は暗渠脇にあり、このため運よく残ったものと思われます。
この暗渠は下のような開渠となる用水路に接続しています。
また、この付近には『【二子玉川】鉄工所リノベのお洒落空間:ソウルツリー』でご紹介した、鉄工所をリノベしたお洒落で美味しいレストラン「ソウルツリー」があります。私の好きなレストランです。
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(吉澤橋)
このすぐ先に野川に架かる「吉澤橋」があります。
吉澤橋の親柱には「車輪」と「レール」をモチーフにしたデザインが描かれています。
また、橋の中間点には、「玉電と吉沢」と書かれた説明版が置かれています。
下の写真は、玉電・砧線の拡大部分。
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(三角公園:2年間だけ存在した幻の駅)
吉澤橋を過ぎると「鎌田三角公園」があります。その名の通り三角形の形をした公園です。
上述した「玉電と郷土の歴史館」の大塚館長によれば、
この公園には、昭和15年(1940年)~17年(1942年)の2年間だけ存在した幻の駅「伊勢宮河原駅」があり、
地図に掲載されていないため、東急電鉄はその存在を正式に認めていないが、住民の方からヒアリングしてその存在を確認しているとのことでした。
また、この「鎌田三角公園」のそばには、昔の地名を冠した飲食店「よしざわ」があります。
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(久地陸閘)
「鎌田三角公園」から多摩川に歩いていくと
「久地陸閘」があります。
「陸閘(りっこう)」とは、Wikipediaによれば
「河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設」
とのことですが、
「陸閘」(りっこう)については、「近代化された二子玉川に残された過去の痕跡~二子玉川散策シリーズ(3)」で詳しく書きましたので、ご関心のある方はこちらをご覧ください。
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(砂利採取の跡)
砧線跡の道に戻ってさらに歩いていくと、
下の写真のように、所々に大きく凹んだ土地があります。
『「砧」の由来~砧線跡散策(1)~二子玉川散策(再訪)番外編』で書いたように、砧線は砂利の輸送を目的につくられた鉄道で、上の窪地は砂利を採掘した跡地となります。
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(砧下浄水所)
さらに歩いていくと、道が二又に分かれます。
砧線は右側の道を通っていましたが、
右側の道を歩く前に、左側の道沿いにある「東京都水道局砧下浄水所(きぬたした じょうすいじょ)」を見てみましょう。
「砧下浄水所場」(きぬたした じょうすいじょ)は東京市への配水を担う澁谷町水道の浄水場として大正12年(1923年)に竣工し、戦前・戦後を通して東京市に配水を続けてきました。
「砧下浄水所」からは真っ直ぐに伸びる「水道道路」があり、
この「水道道路」は、「【桜新町】芸能人の自宅を探訪しながら、桜新町・深沢・用賀を散策(1)」でご紹介した「水道みち」「駒沢給水塔」につながっています。
以前はこの「砧下浄水所(きぬたした じょうすいじょ)」を見学できたのですが、現在ではセキュリティーの観点から見学はできなくなっています。
下の写真は、外から見える大正時代のレトロな建物の一部。
下の写真は「砧下浄水所」にある濾過池。
(出典:Wikipedia)
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(鎌田二丁目南公園:砧本村駅のあった場所)
先ほどの二又の道に戻って、砧線が走っていた右側の道を歩いていくと、
「鎌田二丁目南公園」があります。
ここに砧線の最終駅「砧本村(きぬたほんむら)」がありました。
下の写真は、当時の「砧本村駅」。
(出典:「よみがえる玉電」(フォト・パブリッシング))
下の写真は砧本村駅にあった駅名プレート。
(出典:玉電と郷土の歴史館)
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(移設⇒撤去された砧本村駅のバス待合室)
(注)「砧本村」バス停の駅待室は、砧線廃線後も当時のままバス待合室として第二の人生を送っていましたが、令和4年(2022年)12月7日老朽化により撤去され、新たな待合室ができました(下の写真)。
現在、以前あった趣のある待合室は撤去されてありませんが、当時の写真を掲載しながらこの駅舎を振り返ってみたいと思います(以前の駅舎(待合室)の部材は東急において「再利用が可能な形で保管されている」とのことです)。
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この「鎌田二丁目南公園」に隣接して、「砧本村」のバス折り返し場があり、
現在では、砧線に替わって「二子玉川-砧本村」間は東急バスが運行しています。
バス折り返し場には、当時の鉄道柵が今でも残されています。
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このバス停の駅舎は砧線当時の砧本村駅舎をそのまま移設したものでした。
ベンチも砧線のホームから転用したものです。
レトロな駅舎にふさわしい昭和レトロな看板がありました。
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そのレトロな看板の中に小泉整形外科医院の看板がありましたが、
この小泉整形外科医院は「六郷用水」「二ヶ領用水」を完成させた小泉次大夫(こいずみ じだゆう)の末裔の方だそうです。
二子玉川商店街と丸子川(六郷用水)が交差する場所に「治大夫橋」があり(「二子玉川に残る古道を散策~二子玉川散策シリーズ(5)」を参照)、
小泉次大夫が切り開いた灌漑用水であることの説明版と
次大夫堀の石柱が置かれています。
また、下の写真は「高級ブランド「二子玉川」の原点は辺鄙な場所にあった~「二子塚」を探訪~二子新地散策(4)」で訪れた「二ヶ領用水」の説明版ですが、この中に小泉次大夫の名前が出てきます。
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この、砧本村バス停の近くには『「世田谷のはずれにある美味しいハンバーガー店」と「玉電砧線跡」』でご紹介した、美味しいハンバーガー店「オールドバレーダイニング」があります(下の写真)。
(※)廃線跡、花街など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
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これで、3回にわたって掲載した、「二子玉川散策(再訪)シリーズ」の番外編「東急砧線の廃線跡散策シリーズ」を終了します。
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