高級ブランド「二子玉川」の原点は川崎市の辺鄙な場所にあった~「二子塚(二子塚古墳)」を探訪~二子新地散策(最終回):史跡二子塚之碑/二子塚舊磧
- 2023/04/13
- 18:04
二子新地にある大山街道を散策しました。
今回は、「大山街道ふるさと館」を訪れ、周辺を散策した後、
「二子」の地名の由来となった場所(二子塚古墳)を訪れます。
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「二子玉川散策(再訪)シリーズ」(7回にわたり掲載)の番外編として以下の3つのシリーズがあります。
(1)「二子新地散策シリーズ」(本記事のシリーズ。4回にわたり掲載)
(2)『「芸能人の自宅」と「旧玉川村」を探訪~等々力散策シリーズ』(2回にわたって掲載)
(3)「東急砧線の廃線跡散策シリーズ」(3回にわたり掲載)
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(大山街道ふるさと館)
前回の記事で訪れた「江戸時代からの薬屋」から少し歩くと右手に「大山街道ふるさと館」があります(川崎市高津区溝口3-13-3)。
「大山街道ふるさと館」は高津村役場の跡地に建設されました。
下の写真は、「大山街道ふるさと館」内に展示されている「高津村役場」の模型。
「大山街道ふるさと館」は大山街道(大山道)にまつわる貴重な歴史的資料などを保存・展示している施設で(入場無料)、
本ブログで引用させている資料を提供していただいたり、様々な質問に答えてくださいました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
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また、館内には、「大山街道ふるさと館」の隣地が生家である、人間国宝・濱田庄司の作品「柿釉白掛鉢」(かきゆうしらがけばち)や
濱田庄司関連のその他の物品が展示されています。
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館外には、前回の記事で渡った「高津交差点」付近にあった「高幡不動尊道の道標」がここに移され置かれています。
その拡大写真です。
左側面には「西 大山道 文政十二 巳丑 三月吉日」と書かれています。
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(濱田庄司の家)
「大山街道ふるさと館」の脇には「陶芸家 濱田庄司の家」と書かれた説明版が置かれています。
(溝口・二子宿の問屋跡)
さらに歩くと、右手に「溝口・二子宿の問屋跡」の説明版があります。
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(二ヶ領用水)
この「溝口・二子宿の問屋跡」の前に立派な石造りの「大石橋」があります。
この橋は「二ヶ領用水」に架けられた橋です。
「二ヶ領用水」は神奈川県下で最も古い人工用水路で、全長32キロに及んでいる用水です。
暗渠化されず、現在でもきれいな水が流れていて、
川魚が住んでいます。
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この用水は、「川崎領」と「稲毛領」にまたがって流れていたことから「二ヶ領用水」と言われました。
下の写真は、「大山街道ふるさと館」に展示されている「二ヶ領用水水路図」。
「大石橋」の近くには下の写真のような説明版がありました。
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(亀屋跡)
「大石橋」の少し先に「溝口駅交差点」があります。
この「溝の口駅交差点」の角近くに、「大山街道を散策~二子新地散策(3)~二子玉川散策番外編」で書いたように国木田独歩が宿泊したという旅館「亀屋」があったのですが、残念ながら何の説明版もありませんでした。
下の写真は、「亀屋」があったと思われる場所。
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(史跡二子塚之碑(二子塚古墳):高級ブランド「二子玉川」の原点は辺鄙な場所にあった)
さて、ここから府中街道に戻り、「二子」の地名の由来となった「二子塚跡」を訪れてみます。
「二子塚」とは2つの古墳を意味し、この「二子塚(二子塚古墳)」が「二子」の由来となりました。
大山街道と府中街道の高津交差点を右に曲がります。
府中街道も古い歴史を持つ古道で、律令国家時代に武蔵野国の国府が置かれていた府中に通じる道でした。
しばらく歩いて右手にあるセブンイレブン脇の小道に入ると、
「二子塚公園」があり(川崎市高津区二子6-1-10)、
この公園内に「史跡二子塚之碑」があります。
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この付近にかつて2つの古墳があり、それが「二子塚」(ふたごつか)と呼ばれていたことにちなむと言われています。
ちなみに、「史跡二子塚之碑」の裏には下記のような由来が書かれています。
二子塚の由来 大正の中ごろこの二子塚より勾玉耳環などが発掘され溝口の喜楽翁の手を経て県庁に納められたが大正十二年関東大震災に亡失したという伝えられるところによれば旧八王子街道には一王子村より八王子村までがあって其の内二王子村が現在の二子(村)になったという桓武天皇の直裔高望王の八王子口碑と合わせ伝えられているその後今を去る四百年前の天正十年田斐の国武田の伊奈四郎勝賴公の家士小山田備中の守嫡子小山田小治郎宗光は勝賴公が天目山に自刄した後当地に来て二子元家敷に居を構えたという
昭和四十三年五月五日 二子第五町内会長 吉崎キン
下の写真が「史跡二子塚之碑」の裏の写真。
なお、「史跡二子塚之碑」がある「二子塚公園」には川崎市で走っていたトロリーバスの最後の1両が保存されています。
以前は説明版があったようですが、私が行った時には説明版は置かれていませんでした。
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(二子塚舊磧(二子塚古墳))
また、この「二子塚公園」近くの民家の前に(川崎市高津区二子6-4-12)、
「二子塚舊磧」の碑があります。「舊」とはあまり見かけない漢字ですが「旧」の旧字で、同じく「きゅう」と読みます。
さらに「二子塚舊磧」付近の道は下の写真のように不自然にカーブしていますが、二子塚であった前方後円墳の「後円」部分の痕跡と言われています。
二子塚(二子塚古墳)の土質はカマドや瓦の原材料として適していたことから、次第に掘り崩されて小さくなり、大正時代には小高い草地となっていたといわれています。
大正時代に地元有志により調査され、勾玉・耳環などが発掘されましたが、これらは、関東大震災・太平洋戦争・戦後の宅地開発などにより行方知れずとなっています。
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「大山街道を散策~二子新地散策(3)~二子玉川散策番外編」で訪れた光明寺の説明版に書いているように、
江戸初期に光明寺が二子塚から現在の二子地区に移され、農民たちも一緒に移住し二子村を形作っていきました。
そして、『川崎のブランド力を利用した「二子玉川」~二子玉川界隈散策シリーズ(2)』で詳しく書いたように、
二子村の花街の賑わいにあやかって客を引き寄せるために、「二子」を冠して「二子玉川」という名称を作り上げました。
かつては川崎側の方がブランド力があり、そのブランドを世田谷区側が拝借して「二子玉川」にしたという意外な事実の原点が川崎市の辺鄙な場所にあったのでした。
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これで、「岡本かの子の曽祖父が開いた花街~二子新地散策(1)~二子玉川散策番外編」から4回にわたって掲載してきた「二子新地散策シリーズ」を終了します。
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