大山街道を散策~二子新地散策(3)~二子玉川散策番外編:ブレッドボックス/灰吹屋
- 2023/04/06
- 16:55
二子新地にあった花街の痕跡を具体的に見てきました。
今回は、二子新地にある大山街道を歩いてみます。
(※)古道など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
(※)その他のカテゴリとしては以下のものがあります(投資関係を除く)。
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(大山街道)
前回の記事では、「二子新地」にあった三業地(花街)の痕跡を詳しくみてきましたが、
今回は、大山街道(大山道)を歩きながら、「大山街道ふるさと館」まで行ってみたいと思います。
下の写真は、「二子新地駅」近くに置かれている「大山街道ルート案内図」です。
参考記事:本ブログで歩いた大山街道(大山道)の記事です。
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(二子新地駅:各駅停車が止まらない駅??)
大山街道を歩く前に「二子新地駅」に行ってみます。
「二子新地駅」は東急・田園都市線の他、東急・大井町線の路線があるのですが、
東急・大井町線の各駅停車は「二子新地」と次の駅の「高津」は原則として停車しません(田園都市線の各駅停車は止まります)。
「各駅停車が止まらない駅」と聞くと「ええ!!」と驚くかもしれませんが、
私も大井町線の各駅停車で「二子新地」に行こうとして行けなかった痛い経験があります。
大井町線の各駅停車は日中の閑散期を除いて止まらない理由は下記(※)の通りですが、
止まる電車は【青枠色の電車】、止まらない電車は【緑色枠の電車】で区別することができます。
(※)大井町線の各駅停車が原則として止まらない理由について
平成21年(2009年)までは、「大井町-二子玉川」で折り返し運転していたが、田園都市線の混雑緩和策の一環として溝の口駅まで延伸した際、中線を通って二子新地駅・高津駅は通過する措置を採った【緑色枠の電車】。しかし、地域の利便性を良くすることを考慮し、例外的に、日中の閑散期に(ラッシュ時以外の1時間に3本程度)停車している【青枠色の電車】。
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(大山街道のステッカーや標識)
大山街道を歩いていると、「戦争遺構を探訪~野沢→池尻大橋散策(4)」で見かけたステッカーや
標識をよく見かけます。
商店におかれた「大山街道」の暖簾、
銀行(川崎信用金庫)の看板にも「大山街道」と書かれています。
地元の人たちの大山街道(大山道)に対する愛着が感じられます。
また、二子神社の鳥居脇には「大山燈篭」のいわれについての説明版がありました。
江戸時代、大山信仰のために作られた「講」というグループでは、村の決まった場所に木の灯籠を立てて、毎年7月26日の山開きから8月17日の閉山まで、毎晩欠かさず火を灯したといいます。
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(激安パン屋:サンジェルマンのアウトレット:ブレッドボックス)
途中には激安パン屋の「ブレッドボックス」があります(高津区二子1-1-1)。
下の写真のように激安で、
世田谷からも自転車に乗って多摩川を渡って買い出しに来る主婦がいるそうで、いつも行列ができています。
二子には以前サンジェルマンの多摩川本社工場がありましたが、横浜に本社とともに移転しました。
しかし、多摩川工場移転後も二子新地店としてアウトレットショップが残っています。
参考記事:千疋屋のアウトレット店を紹介した記事として「江東区深川の名所を歩く(2)」があります。
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(二子二丁目公園)
しばらく歩くと左手に「二子二丁目公園」があります。
ここは岡本かの子の実家である大貫家(おおぬきけ)が開業していた大貫病院があった場所です。
岡本かの子は東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)にあった大貫家の別邸生まれですが、
虚弱体質だったため、多摩川が近く環境の良かったこの二子村の本宅で養父母に育てられ、村塾に通い、小学校では短歌を詠む少女でした。
「二子二丁目公園」にあるデザインと隣接するマンションに置かれたデザインが同じなので、
「二子二丁目公園」とマンションを含めた広い敷地が岡本かの子の実家だったことが分かります。
下の写真は当時の大貫病院と
(出典:大山街道ふるさと館)
岡本かの子。
(出典:Wikipedia)
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(光明寺)
「二子二丁目公園」の向かいには「光明寺」があります。
古道らしく、大山街道を歩いているとお寺や古い家が道沿いに点在しています。
説明版には、江戸初期に「二子塚」から移されたと書かれています。
「二子塚」は「二子」の地名の由来となった塚ですが、このことについては次回の記事で詳しく書く予定です。
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また、光明寺には岡本かの子の兄である大貫雪之助の墓があります。
この他、分家と思われる大貫家の墓が多数見受けられました。
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(飯島金物店)
さらに歩いていくと、右手に明治時代から続く老舗店「飯島金物店」があります。
関東大震災後の大正14年頃に建てた合掌作りの建物で、3・11の大地震のときもびくともしなかったそうです。
大きな釜が置かれていて、立て札には「釜の前の立て札には、78年のNHKド ラマ「黄金の日々」で石川五右衛門の釜茹でシーンに使われた」と書かれています。
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(国木田独歩の碑)
大山街道の右手にある「溝口緑地」に
「国木田独歩碑」があります。
説明版には、国木田独歩が溝口を訪れたとき、当時旅館であった亀屋に一泊したことが書かれています。
次回の記事で亀屋跡を訪れますが、その場所には残念ながら亀屋跡の説明版はありませんでした。
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(蔵造りの店)
さらに歩くと右手に「蔵造りの店」があります。
説明版によれば、明治時代に建設された田中呉服店の建物です。
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(田中屋)
大山街道と府中街道との交差点である「高津交差点」に、
宝暦年間創業の「田中屋」があります。
この界隈を歩いていると「田中」という屋号の大きな店をよく見かけるのですが、同じ一族ではないかと思います。
この「田中屋」では「茶」と「はかり」を扱っているのですが、
「はかり」について、当店HPによれば、江戸幕府より度量衡販売の免許を受け、ものさし・はかり・ますの販売をしたことからはかり田中の通称で親しまれ今日に至っているとのことです。
参考記事:江戸時代、秤の販売は免許制で街道に一軒のみだったそうです。秤の史跡については「日本橋高島屋などの老舗店、史跡を散策~【日本橋】日本橋1・2・3丁目、八重洲散策(2)」を参照ください。
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(江戸時代からの薬屋)
「田中屋」近くには「江戸時代からの薬屋」があります。
「江戸時代からの薬屋」とは「灰吹屋」のことですが、
「灰吹屋」は、現在でも、フィットネス・ドラッグストア・エステなど高津・溝口・川崎を中心に多店舗を展開している薬局屋で、そのHPには以下のように書かれています(太文字は筆者)。
灰吹屋の創業は今を遡ること300年以上前、江戸時代中期の貞享年間に北伊勢の国(現在の三重県)より江戸に上り、種々雑多な商品を扱ういわゆる“萬屋(よろずや)”として、東京四谷にて萬屋弥宗兵衛を名乗り商いをしたところに端を発します。それから時は経ち明和2年(西暦1765年)、弊社の創業者である一代目仁兵衛が、江戸から厚木に至る大山参りの旅人の往還で賑わう大山街道・溝口にて、新たに開店したのが「灰吹屋薬種店」
下の写真は、高津駅前にある「灰吹屋」。
なお、高津駅構内には岡本太郎作の陶版画「高津」の複製が展示されています(本物は高津市民館で展示)。
(※)古道など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
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次回の記事では、「大山街道ふるさと館」を訪れ、周辺を散策した後、「二子」の地名の由来となった場所を訪れます。
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