岡本かの子の曽祖父が開いた花街~二子新地散策(1)~二子玉川散策番外編
- 2023/03/23
- 09:28
今回は、7回にわたって掲載した「二子玉川散策(再訪)シリーズ」の番外編として、
「二子新地」を散策します(4回にわたって掲載予定)。
まず、今回散策する地図を掲載します(二子新地駅前にある地図を筆者が加工)。
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「二子玉川散策(再訪)シリーズ」の番外編として以下の3つのシリーズがあります。
(1)「二子新地散策」(本記事のシリーズ。4回にわたり掲載)
(2)『「芸能人の自宅」と「旧玉川村」を探訪~等々力散策シリーズ』(2回にわたって掲載)
(3)「東急砧線の廃線跡散策」(3回にわたり掲載)
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(※)花街、廃線跡など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
(※)その他のカテゴリとしては以下のものがあります(投資関係を除く)。
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(二子玉川駅から二子橋を渡って川崎側に歩く)
二子玉川駅西口を出て徒歩数分の場所にある
二子橋を渡ります。橋の左側にある二子玉川駅を見ながら、昭和52年(1977年)の改修でできた歩道を歩いていきます。
5分ほど歩いて「二子橋」を渡ると、神奈川県川崎市の標識が迎えてくれます。
標識の先には、旧二子橋の親柱が置かれています。親柱の横の道は「大山街道」(大山道)です。
これから、大山街道(大山道)に沿って歩いていきますが、その前に、二子新地が花街であった頃の痕跡を今回の記事と次回の記事で探してみます。
参考記事1:世田谷区側にある旧二子橋の親柱については「多摩川を挟んで似たような地名があるのは何故?~二子玉川界隈散策シリーズ(1)」を参照ください。
参考記事2:世田谷区側の大山街道(大山道)については「二子玉川に残る古道を散策~二子玉川散策シリーズ(5)」を参照ください。
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(「二子新地」のブランド力は「二子玉川」よりも大きかった)
「二子新地」はかつて花柳界のある三業地(料亭、待合、芸者置屋のある場所)で、戦前、戦後大いに賑わいました。
このブランド力にあやかろうと、川崎側の地名である「二子」を頭に冠して「二子玉川駅」と命名したことについては、「川崎のブランド力を利用した「二子玉川」~二子玉川散策シリーズ(2)」で書いた通りです。
なお、「新地」とは、
「居住地や商業地として新しく拓かれた土地のことを指す。 歴史的には、新地開拓後の繁栄策として遊廓などができたことも多かったことから、転じて遊廓や遊里の多い場所を指すこともある」(Wikipedia)との意味で(太字は筆者)
元々川崎側にあった地名である「二子」に
花街を意味する「新地」をつけて「二子新地」としたものです。
玉電の最初の駅名は「二子」でしたが、三業地(花街)の賑わいを踏まえ昭和初期に「二子新地前」と改称しました。
なお、「二子玉川」と同じく、「二子新地」は行政上の地名ではありません。
参考記事:「二子玉川」が行政上の地名でないことについては、「多摩川を挟んで似たような地名があるのは何故?~二子玉川界隈散策シリーズ(1)」を参照ください。
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(岡本かの子の曽祖父が開いた花街)
(以下の内容は、主として「たかつ ひとまち記憶 高津市制40周年記念誌」(下の写真)によります)
「二子新地」の三業地(花街)は、小説家・岡本かの子(岡本太郎の母)の曽祖父である大貫吉之丞が先鞭をつけて開いたものです。
酒造業のかたわら東京吉原で待合を経営していた大和屋大貫吉之丞(※)が二子橋開通後の地域開発を考えて多摩川沿いに歓楽街をつくろうと計画を進めました。
大貫吉之丞は、まず自分の水田を埋めたてて待合「大和」を開店し、関東大震災後、新たな営業地を求めていた吉原や向島の料亭・待合・芸者置場などに声をかけて二子に誘致しました。
(※)Wikipediaの「岡本かの子」の経歴によれば、「代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸(現東京都港区青山)で誕生。大貫家は、神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市高津区)二子に居を構える大地主であった」とのことです。
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大正14年(1925年)に二子橋が完成するころには、それまで一面水田だった場所に花柳界が出現します(下の写真は、地元の古老が描いた当時の地図)。
(出典:「たかつ ひとまち記憶」(高津区制40周年記念誌)
昭和初期の最盛期には待合が50件以上あり、100人近くもの芸者が働いていたそうです。
しかし、昭和33年(1958年)に全面施行された売春防止法を受けてほとんどの店が廃業しました(※※)。
下の写真は岡本かの子
(出典:Wikipedia)
(※※)次回の記事でご紹介する「料亭 やよい」の女将はインタビューで「(昭和22年)嫁いできたころには(筆者注:昭和22年(1947年))、この一角だけで料亭が29軒ぐらいあって」と述べていますので、最盛期を過ぎたとはいえ戦後も花街として賑やかだったことが分かります。
(※)花街、廃線跡など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
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次回の記事では、二子新地にあった花街の痕跡を具体的に見ていきます。
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