「世田谷区の5つのエリア」と「玉川区独立運動」~等々力散策(1):豊田正治/玉川全円耕地整理事業/玉川区の独立運動
- 2023/02/28
- 07:52
今回の記事では「芸能人・著名人の自宅探訪」はせず、「旧玉川村」についてのやや固い内容となっています。
世田谷区等々力地区における「芸能人・著名人の自宅探訪」については、次回の記事をご覧ください。
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今回のシリーズでは、「二子玉川散策(再訪)シリーズ」(7回にわたって掲載)の番外編として、
かつて存在した旧玉川村の中心地であった世田谷区等々力地区を散策しながら、
「芸能人の自宅」と「旧玉川村の歴史」を見ていきたいと思います。
「二子玉川散策(再訪)シリーズ」の番外編として以下の3つのシリーズがあります。
(1)「二子新地散策」(4回にわたり掲載)
(2)『「芸能人の自宅」と「旧玉川村」を探訪~等々力散策』(本記事のシリーズ。2回にわたって掲載)
(3)「東急砧線の廃線跡散策」(3回にわたり掲載)
参考記事:世田谷区等々力界隈の散策について書いた記事として以下の2つがあります。
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(※)地域別(東京23区+近隣県)に分類した散策記事の一覧表として「【保存版】地域別(東京23区+近隣県)散策記事一覧」をご活用ください。
(※)その他のカテゴリとしては以下のものがあります(投資関係を除く)。
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(世田谷区は広い。旧玉川村も広い:旧玉川村だけで渋谷区に匹敵する広さ)
東京23区で最も面積の大きい区は大田区で61,86㎢、2位は世田谷区で58.05㎢あります。
しかしながら、大田区の面積に占める羽田空港のそれは約1/3で、
このことを勘案すれば、世田谷区が実質的に最も大きい区だと言えます(ちなみに、居住人口は1位で最も人口の多い区ですが面積が大きいので人口密度は比較的低くなります)。
世田谷区には、おおむね昔の行政区域に沿った形で、5つの総合支所管轄区域がありますが、
(出典:世田谷区ホームページ)
その中でも、旧玉川村であった「玉川総合支所管区」(空色の地区)は大変広く、世田谷区の約1/4を占め渋谷区に匹敵する広さを有しています。(渋谷区の面積は15.11㎢。玉川総合支所管区の面積は15.82㎢)
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(独特の特性と歴史を持つ5つのエリア)
上述したように、世田谷区は広い面積を有するため、一括りで世田谷区の特性を言うことは困難で、
5つの地域は、それぞれが独自の街を形成し、独特の特性・雰囲気・地形を有しています。
(出典:せたがや便利帳)
「世田谷地域」は区役所がある世田谷区行政の中心地区であるとともに、三軒茶屋がある下町的な商業エリアも含む地域。
「北沢地域」は、下北沢を除き閑静な住宅地区だが、道路網が脆弱な地区。また、小田急線・京王線・京王井の頭線・世田谷線が通るアクセスの良い地域。
「烏山地域」は、商業地・住宅地が半々の地域。烏山等に武蔵野の面影を残す緑の多い地域があるほか、祖師谷付近では狭隘な道が入り組んだ住宅地で、集合住宅が多く建つエリア。
「砧地域」は、地形の起伏が多く、国分寺崖線には豊かな自然が残る地域で多くの湧水を見ることができる。砧公園や多摩川河川敷をはじめとする広大な公園が存在するエリア。映画の撮影所、美術館など文化的な側面も持つ地域。
「玉川地域」は、閑静な住宅地が広がるエリアで、等々力渓谷など自然豊か、古墳・遺跡など歴史のある地域。他の地域と比べて道路が広く、整理された方形になっていて分かりやすい道となっている地域。
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(「独立心が強い」玉川地域)
「玉川地域」のもう一つの大きな特徴として、「独立心が強い」という特徴があります。
Wikipediaによれば、以下のような「独自性」があるそうです。
(1)玉川地域には「世田谷」と冠した公共施設がない。
(2)医師会は玉川地域のみ「玉川医師会」であり(※)、他の地域は「世田谷区医師会」である。
(3)薬剤師会は玉川地域・砧地域と烏山地域の一部が「玉川砧薬剤師会」であり、その他の地域は「世田谷薬剤師会」である。
(4)電話番号の3ケタ目は、玉川地域以南が700番。世田谷を含む4地域が400である。
(5)衆議院選挙小選挙区の区割りでは、世田谷を含む4地域が「東京都第6区」であるのに対して、玉川地域は目黒区と共に「東京都第5区」である。
(※)二子玉川には「玉川歯科医師会」(下の写真)があります。詳しくは調べていませんが、「玉川医師会」と同じく玉川地区独特の名称かもしれません。
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(時代を先取りした都市整備計画;豊田正治村長と玉川全円耕地整理)
話は大正時代まで遡りますが、
「独立心が強い」背景には、他の地域に先駆けて大きな「土地整備事業」(当時は「玉川全円耕地整理事業」と言っていました)を行っているという自負があったからです。
若干40歳で玉川村長に就任した豊田正治(等々力出身)は、
(出典:等々力の玉川総合支所にある豊田正治の記念碑)
渋沢栄一が設立した田園都市構想による田園調布などの事業に触発され、また、農地が安値で買い叩かれていることを危惧し、
大正末期の1924年に「玉川全円耕地整組合」の設立申請を行いました。
耕地整理事業というよりもニュータウンを作り上げる都市整備事業に近いもので、
豊田正治村長の都市化に対応する土地整備の必要性を見据えた事業で、政府の支援に頼らない村民による一大事業でした。
土地の利権が絡むため反対派も多く、暴力沙汰も厭わない抗争が繰り広げられ、暴力団が来て、豊田村長を斬りつけ、耳に傷を負ったこともあるそうで、この運動は殺気だった中で進められました。
豊田村長は耕地整理の途中で死去しましたが、この壮大な事業は続けられ、昭和29年(1954年)、30年の歳月をかけた耕地整理事業は終了しました。
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(村長の先見の明:自由が丘との共通点)
「村長の先見の明」によって街が発展したという点では、自由が丘と共通点があります。
「等々力」から「自由が丘」に話題がそれますが、
『「自由が丘のパンケーキ」と「プチ自由が丘散策」』で書いたように、
現在の自由が丘周辺は低湿地帯で住みにくい場所でしたが、組合長・栗山久二郎が東急創業者の五島慶太と交渉し、駅を誘致し、街が発展しました。
指導者の先見の明と行動力がいかに重要か分かる事例の一つです。
下の写真は、自由が丘の氏神神社である熊野神社に置かれている、「栗山久二郎の像」と「顕彰碑」。
なお、自由が丘を歩いていると「栗山」と書かれた表札が掲げられた大きな邸宅をよく見かけます。
栗山家は不動産会社も経営し、
一族からは都議会議員を輩出しているようです。
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(栗山家の「栗」とモンブランの「栗」)
また、自由が丘には「栗」を原料とするケーキ「モンブラン」発祥の店である「モンブラン」がありますが(下の写真は以前の「モンブラン」。現在は、再開発工事のため仮店舗で営業中)
栗山家の「栗」とモンブランの「栗」という
「栗」を軸に自由が丘が発展したことは、面白い偶然です(^^
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(世田谷区の他の地域よりも道路が広く方形で分かりやすい)
さて、話は戻って「等々力」です(次回の記事で詳しく書きますが、玉川村の中心は等々力でした)。
玉川地区を除く他の世田谷地域は農道を基準に無計画な区画整理が行われたため、細い路地が至る所にある街になりましたが、
上述したように、「玉川総合支所管区」の地区は、他の世田谷地区より道路が広く、整理された方形になっています。
玉川地区の用賀を歩いていると、「一条通り」「三条通り」などの「状通り」があるのを不思議に思っていたのですが、
これは用賀の道路が京都のような碁盤目状に整備されていることに着目してつけられた名前です。
(出典:環状八号線歩道に置かれた地図)
二子玉川のかつての水田地帯の道路も、やや不規則ですが方形に整備されています。
(出典:砧線跡の歩道に置かれている地図)
「玉川地域」の中央に位置する「等々力」も整備された道路網となっています。
(出典:用賀中通りに置かれた地図)
これらは、「玉川全円耕地整事業」の一例です。
「高級住宅地としての玉川地域」が誕生した素地は、この「玉川全円耕地整事業」によるところが大きいと言えます。
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(幻の「玉川区」)
この「玉川地区」は世田谷区から独立しようと「玉川区」の創設を主張したことがかつて2回ありました。
1つは、昭和7年(1932年)、それまでは郡であった世田谷地区・北沢地区・玉川地区が東京市に編入され、「東京市世田谷区」になった際、玉川村は世田谷町と合併することに猛反対し、「玉川区」の創設を主張したことがあります。(この時、東京市は35区になりました)
2つめは、昭和22年(1947年)の東京35区の統廃合の時、練馬区が板橋区から分離独立したことに触発され、砧地区の一部(岡本・鎌田・宇奈根)を伴って世田谷区からの分離独立を主張したことがあります(※※)。
(※※)分離独立できなかった理由は、「世田谷 近・現代史」(世田谷区発行)によれば以下の2つがあったようです。
(1)昭和7年(1932年)の時は、「玉川村の人口がわずかに1万7千人余で1区を編成するに足るものではなかったこと」(808頁)、
(2)昭和22年(1947年)の時は、「区議会の手続きがはかどらず、そのうちドッジ・プランを財政的に表現したシャープ勧告にもとづく税制改革と、政府のデフレ政策とが、特別区の財政を圧迫するという事態を発生させ、・・・(中略)・・・玉川区設置問題も次第に区議会の表面から消えていくことになった」(1142~1143頁)という背景があったようです。
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以上のような経緯があったにせよ、渋谷区と同じ大きさを有する「玉川区」ができていても不思議ではなかったと思います(昭和22年の時には人口10万人に達し、特別区になってもおかしくはありませんでした)。
このように玉川地区は独立心旺盛な地域ですが、これも他の地区に先駆けて「玉川全円耕地整事業」を完成させたという自負があったからだろうと思います。
場合によっては、「玉川区」が成立して東京24区になっていたかもしれませんね。
(※)地域別(東京23区+近隣県)に分類した散策記事の一覧表として「【保存版】地域別(東京23区+近隣県)散策記事一覧」をご活用ください。
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次回の記事では、玉川地域の中心であった等々力を散策しながら「旧玉川村の痕跡」と「芸能人の自宅」を探訪します。
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