近代化された二子玉川に残された過去の痕跡~二子玉川界隈散策シリーズ(3):花街跡/砧線跡/陸閘/逓信省マンホール/二子玉川のシンボルツリー
- 2023/01/19
- 11:25
「玉川」しかなかった地域に、何故「二子玉川」の名がついたのかを考察し、
「二子玉川」=高級イメージという街が、かつては川崎側の方にブランド力があり、そのブランドを世田谷区側が拝借したという意外な事実を追ってみました。
今回は、花街の痕跡、廃線となった砧線跡、煉瓦造りの旧堤防など、近代的な二子玉川に残された昔の痕跡を探訪します。
(※)花街、廃線跡など特定の事象にスポットを当てた記事のカテゴリとして、「東京散歩(古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など)」があります。
(※)その他のカテゴリとしては以下のものがあります(投資関係を除く)。
★★★
★★★
(花街・三業地の痕跡)
多摩川は江戸時代からアユの産地として知られ、明治時代になると玉電と連携して料亭・旅館が、船宿を兼ねてアユ魚の船を出すなどして、行楽客を誘致しました(下の写真)。
(出典:次大夫堀公園事務室の展示)
二子玉川(当時は「玉川」)における、これらの料亭・旅館街は昭和2年(1927年)に三業地(さんぎょうち)に指定され花街として発展していきます。
この三業地(さんぎょうち)は、世田谷区に唯一存在した三業地・花街でもありました。
(出典:世田谷区文化財調査報告集―15-)
三業地の周辺には水田地帯が広がっています。
三業地とは①待合茶屋(待合)・②芸妓(芸者屋・置屋)・③料理屋の三業種が営業を行う地域のことです。
待合は場所を提供するだけで、料理ができませんから、料理は料理屋から取り寄せ、芸妓置屋から芸者を呼びました。その中で料亭だけが今日まで存続しています。
★★★
★★★
大正9年(1907年)にできた三業地の指定地制度によって、上述したように、昭和2年(1920年)正式に玉川の三業地・花街が成立しました。
都心の花柳界と比べ6割程度の安さのため人気がありましたが、「場末」の感はぬぐえなかったようです。
昭和10年頃は花街としてにぎわっていたそうですが、今ではその当時の面影はほとんど失われてしましました。
しかし、わずかながらその痕跡が見られますので、それらについては次回の記事で見ていきたいと思います。
下の写真は、玉川にあった往時の待合。
(出典:世田谷区文化財調査報告集―15-)
当時の待合には、料理屋や置屋に連絡を取るための電話室が必ずありました。
(出典:「世田谷区文化財調査報告集―15-」を筆者が加工)
(都心の花街、ゲイタウンについて書いた記事)
都心の花街、ゲイタウンについて書いた記事としては以下の記事があります。
(1)銀座8丁目にある新橋花柳界について書いた記事:「銀座の高級クラブ界隈を歩く~銀座散策~神社・裏路地巡り~(9)」
(2)人形町の花街について書いた記事:「【日本橋】花街・元吉原の名残(2)~日本橋人形町・富沢町散策」
(3)柳橋の花街について書いた記事:「蔵前→浅草橋散策(最終回)」
(4)新宿二丁目のお寺とゲイタウンについて書いた記事
★★★
★★★
(砧線跡)
玉川高島屋から、「多摩川を挟んで似たような地名があるのは何故?~二子玉川界隈散策シリーズ(1)」でご紹介した「二子橋親柱」が置かれている場所に行く途中に、
「花みず木通り(砧線跡)」という小さな通りがあります。
ここは、砧線という東急玉川線の廃線路跡なのですが、この砧線跡の散策については番外編として記事を書く予定です(「東急砧線の廃線跡散策シリーズ」)。
下の写真は、砧線が走っていた橋に置いてある説明版。
★★★
★★★
(ハナミズキ:二子玉川のシンボルツリー)
なお、ハナミズキは二子玉川のシンボルツリーになっていて、二子玉川を歩いているといたるところでハナミズキの並木に出会います。
下の写真は、4月に開花したハナミズキの花。
「花」に見える白い部分は実は苞葉(ほうよう)という「葉」が変形したもので、実際の花は中にある黄色い部分が花になります。
なお、二子玉川ライズには「ドッグウッドプラザ」という、レストランや商店からなる商業施設がありますが、
英語の「ドッグ ウッド(dog wood)」は「ハナミズキ」のことです。
英名の「Dogwood」はハナミズキの見た目とは全然関係がないのですが、
その昔、ハナミズキの樹皮の煮汁を煎じた液を犬の皮膚病治療のために用いていたことからその名前がついたと言われています。
★★★
★★★
(煉瓦造りの旧堤防)
二子玉川駅を出て右に曲がると、近代的なライズの商業施設があります。
下の写真は夜のライズ。
ちなみに、玉川高島屋とライズには多くの商店やスーパーマーケットがあり、日常生活の商品のほとんどはここで手に入りますが、
ヤマダ電機やビックカメラのような家電量販店がないのが二子玉川の欠点と言えば欠点です。
蔦屋電機がありますが、ここは高級過ぎ専門的過ぎるのでやはり一般的な家電量販店があるといいですね。
ライズを通り過ぎると、バスターミナルがありますが、その先に昭和8年(1933年)に完成した煉瓦造りの多摩川旧堤防があります。
下の写真は、上空から見た多摩川旧堤防です。
(出典:「二子玉川メディア」の「陸閘の閉鎖訓練レポート」を筆者が加工)
★★★
★★★
(陸閘)
下の写真は多摩川旧堤防に登って撮影した多摩川旧堤防です。左右の街並みが異なり、ライズ側が再開発されていることが分かります。
ここには、「玉川西陸閘」(たまがわひがしりっこう)があり、
「玉川西陸閘」の表示があります。
「陸閘」(りっこう)とは聞き慣れない用語ですが、Wikipediaによれば
「河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設」(出典:Wikipedia)
とのことです。
多摩川が増水したときに洪水を防ぐため、「陸閘」にはゲートを差し込む縦の溝があります。
増水時に備えて、毎年、陸閘の閉鎖訓練が行われています。下の写真はその訓練の様子です(出典:「二子玉川メディア」の「陸閘の閉鎖訓練レポート」)
★★★
★★★
(農業用水路跡)
二子玉川駅周辺は平たんで歩きやすいのですが、ところどころに、「想定浸水深●メートル」という標識が置かれています。
また、過去の写真や地図を見ると、現在の二子玉川駅周辺は水田地帯であったことが分かります。
(出典:「多摩川と世田谷の村々」(世田谷区郷土資料館))
このように、現在の二子玉川駅周辺は、かつては田んぼが広がる水田地帯でした。
このため、この界隈を歩いていると、かつての農業用水路跡を所々で見ることができます。
★★★
★★★
(逓信省マンホール)
二子玉川駅西口を出て、玉川高島屋方向に向かうと、
玉川高島屋S・C前の歩道に
昭和10年代に設置されたと思われる逓信省のマンホールがあります。
中央部には「〒」の徽章と「話電」と右書きで書かれた文字があります。
二子玉川の大規模な開発にもかかわらず、よく残っていたものです。
参考記事:いまだに残っている戦前のマンホールについて書いた記事として以下のものがあります。
★★★
★★★
(「玉川町」と書かれた旧住居表示の表札)
二子玉川界隈を歩いていると、「玉川町」と書かれた地番表示のみの旧住居表示の表札がありました。
(旧住居表示のため現在の場所を特定することは困難ですので全住所を開示しています)
参考記事:この他に、旧住所表示の表札について書いた記事として、以下の記事があります。
(1)「區森大」の表札について書いた記事
(2)渋谷区が東京都(当時は「東京市」)に編入される以前の旧住居表示について書いた記事
(3)「區谷四」の表札について書いた記事
(4)目黒区に衾町(ふすままち)があった当時の旧住居表示について書いた記事
(5)「區並杉」の表札について書いた記事
☆☆☆
次回の記事では、二子玉川に残された花街の具体的な痕跡を見ていきます。
★★★
★★★
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○

