東京大仏を見に行く(1):鎌倉街道・泉福寺・松月院・怪談乳房榎
- 2018/06/18
- 09:07
当初は「東京大仏」が目的だったのですが、ところがどうして、調べていくうちにこの周辺には「東京大仏」以外にも多くの史跡・見どころが満載であることが分かりましたので、それらを見ながら散策したいと思います。
東武東上線の下赤塚駅北口を出ると、商店街がありますが、お店には「大仏サブレー」を売っているお店があったりして、「東京大仏」がこの地区の名物であることがよく分かります。

☆☆☆
(鎌倉街道)
商店街を抜けて、細い道に入ると、鎌倉街道の標識があります。「至る かまくら」「至る はやせ」と書いてありますが、「はやせ」は荒川(埼玉県戸田市)にある「早瀬の渡し」のことです。


鎌倉幕府は多くの御家人をかかえ、御家人は命令があると様々な道を使って、「いざ鎌倉へ」の通り、鎌倉幕府へ馳せ参じました。
鎌倉街道は、「鎌倉往還(かまくらおうかん)」、「鎌倉道(かまくらみち)」、「鎌倉古道(かまくらこどう)」とも呼ばれます。
様々な地域から鎌倉に馳せ参じますので、「鎌倉街道」は一つの道ではなく、いくつもの道があります。
そのうち、東京を通る道には、大きく分けて、
(1) 府中を抜けて上野国(こうずけのくに、今の群馬県)に至る「上道(かみつみち)」
(2) 二子の渡し(今の二子玉川)を抜けて下野国(しもつけのくに、今の栃木県)に至る「中道(なかつみち)」
(3) 丸子の渡し(今の丸子橋)から中原街道・二本榎通りを経て下総国(今の千葉県北部と茨城県西部)・常陸国(茨城県の大部分)に至る「下道(しもつみち)」。
があります。
(3)の「下道(しもつみち)」は概ね「古代東海道」に該当します。このうち二本榎通りは港区の尾根道を歩くで私たちが歩いた道です。
この板橋区赤塚で見た鎌倉街道は(2)の「中道(なかつみち)」の一部と考えられます。
この板橋区の「鎌倉街道」は上のような標識を置いてあるので分かりやすくとても親切だと思いました。この古道沿いには庚申塔もあり、古道感満載です。

(泉福寺の板碑)
ここの鎌倉街道は途中で途切れたりするので、メインの道も使いながら歩いていくと真言宗のお寺である泉福寺があります。

小さなお寺ですが、ここの見どころは「板碑(いたび)」です。

板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。
(Wikipediaより)
これほど多くがあるのは珍しいと思います。
(松月院)
徳川家康に40万石の朱印地を寄進された由緒あるお寺です。

入り口には、「新東京八名勝」の碑がありました。これは「新しく選ばれた八名勝」の意味ではなく「昭和7年(1932年)に新しい東京ができたので選ばれた八名勝」の意味です。

つまり、旧東京が隣接する5郡82町村を編入・拡大し、新しい東京が生まれたのを記念して、報知新聞社が主催して、東京に編入された地域の名勝を選んだのです。
この松月庵も、「池上本門寺」、「亀戸天神」などとともに八名勝の一つとして選ばれました。
八名勝に選ばれるだけあって、見どころ満載の立派なお寺です。
それでは、それらの見どころを見ていきましょう。
(怪談乳房榎)
三遊亭円朝が創作した落語「怪談乳房榎」の碑が入口の右横にあります。
この碑は柵で囲われており、写真は斜め横から写しましたので、見にくいのですがご容赦ください。

「怪談乳房榎」のあらすじは以下のとおりです。
絵師として活躍していた菱川重信の妻・おきせに惚れてしまった磯貝浪江という浪人は、重信の弟子となっておきせに近づき、関係を持たないと子供を殺すと脅迫し、おきせと関係を持ってしまう。それだけでは飽き足らない浪江はおきせを独占するため、師を惨殺する。夫の死のショックで乳の出なくなったおきせの元に、死んだ重信の亡霊が現れ、乳を出す不思議な榎が松月院にあると教え、やがてその榎の乳で育った子・真与太郎は父を殺した浪江を討ち仇を取る。
(Wikipediaより。太字は筆者)
この松月院の見どころはまだありますが、次回で見ていきます。(続きます)
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