丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ(最終回):外堀通り/ヤン・ヨーステン像/北町奉行所跡
- 2018/06/15
- 18:20
丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ(2)の続きです。
今回は八重洲を散策してみます。
☆☆☆
(外堀通り)
「外堀通り」がなんで史跡・見どころなのか? と思われるかもしれませんが、「外堀通り」はいろいろと興味深い情報が盛り込まれています。

「外堀通り」はその名の通り、江戸城の「外堀」で明治以降の開発で埋め立てられるまでは、豊富な水をたたえたお堀でした。このため、今でも「呉服橋」「鍛冶橋」「数寄屋橋」など外堀通り沿いには「橋」のつく地名が多く残っています。
さらに、この「外堀通り」は千代田区と中央区の区境にもなっています。
江戸時代は「外堀通り」の内側(皇居寄り)が大名屋敷の敷地で、外側は町人の町でした。
その名残は今でも残っていて、大名屋敷のあった内側は敷地が細分化されなかったため大きなビルが多く建設されていますが、外側の町人地区は土地が既に細分化されていたので、今でも一杯飲み屋や小さな店舗が建ち並ぶ八重洲商店街となっています。
下の写真左は「八重洲仲通り」です。前々回ご紹介した「丸の内仲通り」を写真右に再掲しますが、同じ「仲通り」でも雰囲気が全く違うことが分かると思います。

この傾向は地下街にも現れていて、丸の内側の地下街は写真左のようにだだっ広く、写真右の八重洲地下街は人でごった返しています。どちらの写真も同日(日曜日)の午後8時頃に撮ったものですが、日曜は丸の内で働くサラリーマンがいないことを考慮してもその違いは歴然としています。

また、丸の内側(武士側)と八重洲側(町人側)のアクセスは今でもよくなく、アクセス通路は北口地下にある「自由通路」だけです。

八重洲の南側から丸の内南側まで行くには、(JRの定期券があればJRの駅内通路を利用できますが)北口地下の自由通路まで迂回するしかなく(さもなければ鍛冶橋交差点まで行くしかない)、非常に不便です。
(ヤン・ヨーステン像)
八重洲の地名の由来となった「ヤン・ヨーステン像」が八重洲地下街にあります。ヤン・ヨーステンは、本当は丸の内側に住んでいたのですが、いろいろな経緯があって八重洲の地名の由来となりました。

ヤン・ヨーステンについてはWikipediaによれば以下のとおりです。
Wikipediaでは「屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが」と書かれていますが、江戸時代の古地図には、(現在の丸の内側にある)和田倉門外濠端に「やよすかし」の記述がありますので、屋敷のあった場所は現在の八重洲ではなく、丸の内側と考えられます。
八重洲地下街には、下の写真のような八重洲の歴史を浮世絵などで説明した展示が行われています。興味のある方は立ち寄ってみるといいと思います。

「ヤン・ヨーステン像」はこの他にも、八重洲口の大通り交差点に「平和の鐘」とともに置かれています。

(尾台榕堂の像)
幕末明治期の漢方医である「尾台榕堂(おだいようどう)」の像が、八重洲大通りの脇の柳通りに置かれています。

私はこの人物を知りませんでしたが、漢方では著名な方のようです。
(北町奉行所跡)
有楽町駅前にある南町奉行所跡については、南町奉行所跡と東京ミッドタウン日比谷で書きましたが、北町奉行所跡は東京駅八重洲口にあります。
八重洲口ですが、北町奉行所は江戸幕府の中央省庁ですから、「外堀通り」内側の大名屋敷側にあります。
下の写真は「グランドトウキョウノースタワー」前にある説明板です。

「丸の内トラストタワー本館」を少し入ったところにも説明板(写真左)があり、トラストタワーの庭には北町奉行所跡(写真右)が残されています。

この他に、このトラストタワーの敷地内には玉川上水を模した流れなどがあります。とっても落ち着いた敷地ですので、散策に疲れた時に休むのに格好の場所です。

(お洒落カフェ)
散策後は京橋近くにある「トシ・ヨロイズカ」で食事をしました。

「トシ・ヨロイズカ」は女優の故川島なお美さんのご主人が経営するお店です。
これで「丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ」は終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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今回は八重洲を散策してみます。
☆☆☆
(外堀通り)
「外堀通り」がなんで史跡・見どころなのか? と思われるかもしれませんが、「外堀通り」はいろいろと興味深い情報が盛り込まれています。

「外堀通り」はその名の通り、江戸城の「外堀」で明治以降の開発で埋め立てられるまでは、豊富な水をたたえたお堀でした。このため、今でも「呉服橋」「鍛冶橋」「数寄屋橋」など外堀通り沿いには「橋」のつく地名が多く残っています。
さらに、この「外堀通り」は千代田区と中央区の区境にもなっています。
江戸時代は「外堀通り」の内側(皇居寄り)が大名屋敷の敷地で、外側は町人の町でした。
その名残は今でも残っていて、大名屋敷のあった内側は敷地が細分化されなかったため大きなビルが多く建設されていますが、外側の町人地区は土地が既に細分化されていたので、今でも一杯飲み屋や小さな店舗が建ち並ぶ八重洲商店街となっています。
下の写真左は「八重洲仲通り」です。前々回ご紹介した「丸の内仲通り」を写真右に再掲しますが、同じ「仲通り」でも雰囲気が全く違うことが分かると思います。


この傾向は地下街にも現れていて、丸の内側の地下街は写真左のようにだだっ広く、写真右の八重洲地下街は人でごった返しています。どちらの写真も同日(日曜日)の午後8時頃に撮ったものですが、日曜は丸の内で働くサラリーマンがいないことを考慮してもその違いは歴然としています。


また、丸の内側(武士側)と八重洲側(町人側)のアクセスは今でもよくなく、アクセス通路は北口地下にある「自由通路」だけです。

八重洲の南側から丸の内南側まで行くには、(JRの定期券があればJRの駅内通路を利用できますが)北口地下の自由通路まで迂回するしかなく(さもなければ鍛冶橋交差点まで行くしかない)、非常に不便です。
(ヤン・ヨーステン像)
八重洲の地名の由来となった「ヤン・ヨーステン像」が八重洲地下街にあります。ヤン・ヨーステンは、本当は丸の内側に住んでいたのですが、いろいろな経緯があって八重洲の地名の由来となりました。

ヤン・ヨーステンについてはWikipediaによれば以下のとおりです。
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年(慶長5年)4月19日、豊後に漂着。
徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる
(Wikipediaより抜粋)
Wikipediaでは「屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが」と書かれていますが、江戸時代の古地図には、(現在の丸の内側にある)和田倉門外濠端に「やよすかし」の記述がありますので、屋敷のあった場所は現在の八重洲ではなく、丸の内側と考えられます。
八重洲地下街には、下の写真のような八重洲の歴史を浮世絵などで説明した展示が行われています。興味のある方は立ち寄ってみるといいと思います。

「ヤン・ヨーステン像」はこの他にも、八重洲口の大通り交差点に「平和の鐘」とともに置かれています。

(尾台榕堂の像)
幕末明治期の漢方医である「尾台榕堂(おだいようどう)」の像が、八重洲大通りの脇の柳通りに置かれています。

私はこの人物を知りませんでしたが、漢方では著名な方のようです。
(北町奉行所跡)
有楽町駅前にある南町奉行所跡については、南町奉行所跡と東京ミッドタウン日比谷で書きましたが、北町奉行所跡は東京駅八重洲口にあります。
八重洲口ですが、北町奉行所は江戸幕府の中央省庁ですから、「外堀通り」内側の大名屋敷側にあります。
下の写真は「グランドトウキョウノースタワー」前にある説明板です。

「丸の内トラストタワー本館」を少し入ったところにも説明板(写真左)があり、トラストタワーの庭には北町奉行所跡(写真右)が残されています。


この他に、このトラストタワーの敷地内には玉川上水を模した流れなどがあります。とっても落ち着いた敷地ですので、散策に疲れた時に休むのに格好の場所です。

(お洒落カフェ)
散策後は京橋近くにある「トシ・ヨロイズカ」で食事をしました。


「トシ・ヨロイズカ」は女優の故川島なお美さんのご主人が経営するお店です。
これで「丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ」は終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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