丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ(2):大手町の森・将門の首塚・太田道灌像
- 2018/06/14
- 19:00
前回の丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ(1)では、KITTEまで行きました。
今回は大手町方面に進み、その後有楽町方面へ行ってみます。
☆☆☆
(大手町の森)
丸の内仲通りを大手町方面に行くと「大手町の森」があります。
高層ビルの間にありますが、鬱蒼とした木々に覆われていて、郊外にある森のような感覚になります。

2014年に作られたものですが、大手町に「本物の森」を作ろうというプロジェクトでした。作るのも苦労が多かったと思いますが、維持にも大変な努力をしているそうです。
中を歩いているとエレベーターがありましたが、まるで森の中にエレベーターがあるような不思議な光景でした。

(将門の首塚)
さらに進むと、三井物産ビルの東側に将門伝説の首塚があります。
近代的なビル群の中に異空間のように存在しています。

朝廷に反逆した平将門が討ち死にし、首が京都でさらされていましたが、その首がここまで飛んできたという伝説に基づくもので、江戸時代以前からある首塚です。
地形と歴史で推理してみる(1):日本橋~茅場町地下通路で、新橋から大手町にかけては、江戸時代以前は日比谷入江という海だったことを書きましたが、この首塚のあるところは江戸時代以前からあるので、海ではなく日比谷入江に面した高台の場所だったと考えられます。
平将門は朝廷に対抗した謀反人として扱われたりしますが、当時の朝廷の圧政に苦しむ関東の民衆のために戦った人物として、関東では人気の高い人物です。
このため、関東地方には多くの平将門伝説があり(この首塚伝説もその一つですが)、また神田明神を始めとして平将門を祀る神社が結構あります。
なお、首塚には近代になってできた怨霊伝説もあります。第二次大戦後にGHQや大蔵省(当時は「財務省」ではなく「大蔵省」でした)が区画整理のためにこの首塚をどけようとしたところ不審な事故が多発したため、この首塚をこの地に留めたとのことです。
そのことを書いた新聞切り抜きがこの首塚に掲示されていました。怨霊思想は日本に古来からある考えですが、その怨霊思想が現代の日本にも引き継がれていることがよく分かる事例です。

日本の怨霊思想については、「東大にもあった怨霊思想(散策)」で私の考えを書きましたので、ご関心のある方はこちらの記事をお読みください。
(三菱一号館)
次に、方向を変えて丸の内仲通りを有楽町方面に歩いていきます。
見えてくるのが、レンガ造りの重厚な建物です。

この「三菱一号館」はこの界隈ではメジャーな存在で「ちょっと知らない史跡」ではありませんが、避けて通ることはできないのでここでご紹介しました。
この「三菱一号館」はジョサイア・コンドルが設計したものですが、五反田にある旧島津公爵邸も同じくジョサイア・コンドルが設計したことは、旧島津公爵邸(清泉女子大学本館):城南五山に残された邸宅で書きました。
(太田道灌像)
この「三菱一号館」が面する晴海通りを銀座方向に行くと、東京国際フォーラムがあります。
この東京国際フォーラムは東京都庁(都庁の前は東京府庁)の跡地に建設されました。
東京府庁の碑が国際フォーラム前に残されています。

この東京国際フォーラムの建物の中に太田道灌に関する展示場があります。
太田道灌は江戸城を築いたことで知られていますが、その太田道灌像は江戸城を向いています。

興味深い資料がいくつも展示されていますが、下の写真は太田道灌が築いた江戸城です。

当時の江戸城は私達が見る今の立派な江戸城とは異なって、山城のようなものだったことがイメージとして理解でき興味深い絵です。
前回説明した平将門同様、太田道灌も関東では人気のある人物で、太田道灌関連の神社が東京には多くあります。(続きます)
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今回は大手町方面に進み、その後有楽町方面へ行ってみます。
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(大手町の森)
丸の内仲通りを大手町方面に行くと「大手町の森」があります。
高層ビルの間にありますが、鬱蒼とした木々に覆われていて、郊外にある森のような感覚になります。

2014年に作られたものですが、大手町に「本物の森」を作ろうというプロジェクトでした。作るのも苦労が多かったと思いますが、維持にも大変な努力をしているそうです。
中を歩いているとエレベーターがありましたが、まるで森の中にエレベーターがあるような不思議な光景でした。

(将門の首塚)
さらに進むと、三井物産ビルの東側に将門伝説の首塚があります。
近代的なビル群の中に異空間のように存在しています。


朝廷に反逆した平将門が討ち死にし、首が京都でさらされていましたが、その首がここまで飛んできたという伝説に基づくもので、江戸時代以前からある首塚です。
地形と歴史で推理してみる(1):日本橋~茅場町地下通路で、新橋から大手町にかけては、江戸時代以前は日比谷入江という海だったことを書きましたが、この首塚のあるところは江戸時代以前からあるので、海ではなく日比谷入江に面した高台の場所だったと考えられます。
平将門は朝廷に対抗した謀反人として扱われたりしますが、当時の朝廷の圧政に苦しむ関東の民衆のために戦った人物として、関東では人気の高い人物です。
このため、関東地方には多くの平将門伝説があり(この首塚伝説もその一つですが)、また神田明神を始めとして平将門を祀る神社が結構あります。
なお、首塚には近代になってできた怨霊伝説もあります。第二次大戦後にGHQや大蔵省(当時は「財務省」ではなく「大蔵省」でした)が区画整理のためにこの首塚をどけようとしたところ不審な事故が多発したため、この首塚をこの地に留めたとのことです。
そのことを書いた新聞切り抜きがこの首塚に掲示されていました。怨霊思想は日本に古来からある考えですが、その怨霊思想が現代の日本にも引き継がれていることがよく分かる事例です。

日本の怨霊思想については、「東大にもあった怨霊思想(散策)」で私の考えを書きましたので、ご関心のある方はこちらの記事をお読みください。
(三菱一号館)
次に、方向を変えて丸の内仲通りを有楽町方面に歩いていきます。
見えてくるのが、レンガ造りの重厚な建物です。

この「三菱一号館」はこの界隈ではメジャーな存在で「ちょっと知らない史跡」ではありませんが、避けて通ることはできないのでここでご紹介しました。
この「三菱一号館」はジョサイア・コンドルが設計したものですが、五反田にある旧島津公爵邸も同じくジョサイア・コンドルが設計したことは、旧島津公爵邸(清泉女子大学本館):城南五山に残された邸宅で書きました。
(太田道灌像)
この「三菱一号館」が面する晴海通りを銀座方向に行くと、東京国際フォーラムがあります。
この東京国際フォーラムは東京都庁(都庁の前は東京府庁)の跡地に建設されました。
東京府庁の碑が国際フォーラム前に残されています。

この東京国際フォーラムの建物の中に太田道灌に関する展示場があります。
太田道灌は江戸城を築いたことで知られていますが、その太田道灌像は江戸城を向いています。

興味深い資料がいくつも展示されていますが、下の写真は太田道灌が築いた江戸城です。

当時の江戸城は私達が見る今の立派な江戸城とは異なって、山城のようなものだったことがイメージとして理解でき興味深い絵です。
前回説明した平将門同様、太田道灌も関東では人気のある人物で、太田道灌関連の神社が東京には多くあります。(続きます)
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