【日本橋】火の見櫓と消防署~「親父橋」「思案橋」とは?~日本橋小網町・人形町1丁目を散策(1):東堀留川/小網神社
- 2022/03/01
- 09:10
「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」を終了しました。
今回は新たなサブシリーズ「日本橋小網町・人形町1丁目を散策サブシリーズ」の第1回目の記事になります。
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(参考:今までの日本橋散策記事)
日本橋散策については、今まで、以下のような6つのサブシリーズと1つの番外編を掲載してきました。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋人形町二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
⑤(番外編)「見どころの多い中央区新川散策シリーズ」:日本橋と比べると存在感の少ない新川地区ですが、散策すると多くの見どころを見つけることができる新川地区を散策した番外編(6回にわたり掲載)
⑥「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」:伝馬町牢屋敷跡、浜町川跡の暗渠散策、東日本橋界隈を散策(3回にわたり掲載)
⑦「日本橋小網町・人形町1丁目を散策サブシリーズ」:人形町にあった「元吉原」に通じる橋である「親父橋跡」、西郷隆盛屋敷跡などを散策(2回にわたり掲載)
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(散策エリア)
今回散策するエリアは下の写真のような地域となります(緑で囲った部分)。
(出典:日本橋都市観光マップNo54を筆者が加工したもの)
主に「水天宮通り」と「日本橋川」にはさまれた部分になります。
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(東堀留川跡)
今回の散策では、日本橋川に面した場所にある「小網町児童公園」から出発します(下の写真)。
「小網町児童公園」は日本橋散策の第一回の記事である「【日本橋】堀留の由来は?~日本橋堀留町・小舟町界隈散策(1)」で書いた「東堀留川」(現在は埋め立てられて暗渠化)の河口部分跡に作られた公園です。
「東堀留川」は、上の記事に掲載した2つの堀のうち東側(右側)にあった堀です。
(出典:江戸時代MAP(大江戸編)光村推古書院 30ページ)
「小網町児童公園」から上流方向を見ると、「東堀留川」跡に2つのビルが建っているのがよく分かります(中央の小道は埋め立て後作られたもの)。
(両脇には「河岸地」があったので、実際の堀の幅はこれよりもやや狭かったと考えられます)
下の写真は、埋め立て前の昭和23年(1948年)当時に上流方向から河口部分を撮影したものです。
(出典:「川と“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩」PHP新書 岡本哲志著 146ページ 筆者が加工)
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(小網神社)
この「東堀留川」跡の脇に「小網神社」があります(中央区日本橋小網町16-23)。
上の昭和23年当時の写真では、小網神社が東堀留川に面して建っていたことが分かりますが、東堀留川が暗渠化された現在はこの道路からしか見ることができません。
この小網神社は室町時代にさかのぼる由緒ある神社です。
現在の社殿は、昭和4年(1929年)に明治神宮を造営した宮大工一門によって作られた木造檜造りの建築で、
彫刻が見事です。
また、小網神社は強運厄除けのご利益があるとして知られており、お守りや縁結びのまゆ玉みくじを求めて、休日はもとより平日でも下のような行列ができています。
下の写真は、小網神社の「まゆ玉みくじ」。
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(土地における歴史の継続:火の見櫓のあった場所に消防署)
「【日本橋】堀留の由来は?~日本橋堀留町・小舟町界隈散策(1)」で書いた後に発見したことですが、
(東堀留川の先端にあたる)堀留の「日本橋消防署堀留出張所」(下の写真)がある場所に
江戸時代には、「火の見櫓」がありました(「江戸名所図会」に描かれた堀留の風景)。
(出典: 東京都立博物館デジタルミュージアム)
下の写真は分かりやすくするために、筆者が加工したものです。
(出典: 東京都立博物館デジタルミュージアム)
同じ場所に、「火の見櫓」(江戸時代)→「消防署」(現代)と形が変わっても、同じ機能を有する施設があるとは面白い歴史的現象です。
参考記事:火の見櫓跡(現・日本橋消防署堀留出張所)の隣にあるイタリアンレストラン「イル・タンブレッロ」の記事『【人形町】「長い行列ができる1000円ピッツァリア・ランチ」と「甘酒横丁のソフトクリーム2選」』を書いたことがあります・
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このような「土地における歴史の継続事例」というのは東京を散歩して目を凝らしていると時々見つけることができます。
そのような事例を本ブログ記事の中から2つ挙げてみます。
(土地における歴史の継続事例①:新宿二丁目のゲイタウン)
「江戸時代には非公認の遊郭があった場所、戦後は赤線地帯であった場所が、現在の新宿2丁目のゲイタウンに継承されているわけで、歴史の継続性がここでも見られます。」
と書いて、「土地における歴史の継続性」について述べたことがあります。
下の写真は、新宿二丁目にある男性専用のサウナ「24会館」。
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(土地における歴史の継続事例②:橋梁としての日本橋)
江戸時代に「罪人の晒し場」があった場所に、現在は「交番」が置かれ、
同じく、江戸時代に情報を伝える「高札場」があった場所に、現在は「観光案内所」があることを書きました。
このように、同じ土地に似たような施設が形を変えながらも継続しておかれていることは大変興味深いことです。
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(親父橋)
この「東堀留川」跡を上流にたどっていくと、「親父橋」(おやじばし)の説明板があります(中央区日本橋小網町16−12)。
その説明版の拡大写真です。
民間の方が作った説明版のようですが、このような説明版があると大変助かります。
この親父橋は、上で掲載した江戸時代の地図にも描かれています。
(出典:江戸時代MAP(大江戸編)光村推古書院 30ページ)
「小網町児童公園」そばに置かれた地図で、「親父橋」の位置を示すと以下のようになります。
(「小網町児童公園」そばに置かれた地図を筆者が加工したもの)
江戸幕府公認の「元吉原」を開設した庄司甚右衛門が作った橋で、庄司甚右衛門は「おやじ」と親しみを込めて呼ばれていたため、「親父橋」となったそうです。
元吉原については、「【日本橋】花街・元吉原の名残(2)~日本橋人形町・富沢町散策」を参照してください。
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(思案橋)
また、江戸時代の地図には、「親父橋」の南側に「思案橋」が描かれていますが、
「思案橋」の近くの現・人形町2丁目界隈には、浅草移転前の吉原遊廓(元吉原)があり、この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも戻ろうかと思案したので、「思案橋」の名がつけられたと言われています。
「思案橋」については説明版が置かれていません。
下の写真は、思案橋があった付近にある「小網町児童遊園」と「日本橋川の上に造られた首都高速道路」。
日本橋川との間には東堀留川跡の接続口が今でもあります。
参考記事:人形町にあった元吉原の記事については以下の記事も参照ください
「【日本橋】三田友梨佳の実家~花街・元吉原の名残~日本橋人形町2丁目・富沢町散策(1)」
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次回の記事では、「小網町・人形町1丁目散策シリーズ」の最終回として、レストラン・カフェ巡りをしながら、「西郷隆盛屋敷跡」や「芸者新道」を見に行きます。
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