本当の両国は日本橋にあった~墨田区から離れた中央区になぜ両国郵便局があるのか?~日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策(最終回):日本橋横山町繊維街/両国広小路の碑/薬研堀不動院
- 2022/02/14
- 11:30
昭和30年代に暗渠化された浜町川の痕跡を辿りました。
今回は、「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」の3回目(最終回)の記事として、
(「両国」は、今では墨田区にある両国のみが知られていますが)元々の両国は日本橋(中央区)にあったことを示す痕跡を探したり、日本橋横山町の繊維街を散策します。
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日本橋散策については、今まで、以下のような5つのサブシリーズと1つの番外編を掲載してきました。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋人形町二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
⑤(番外編)「見どころの多い中央区新川散策シリーズ」:日本橋と比べると存在感の少ない新川地区ですが、散策すると多くの見どころを見つけることができる新川地区を散策した番外編(6回にわたり掲載)
⑥「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」:伝馬町牢屋敷跡、浜町川跡の暗渠散策、東日本橋界隈を散策(3回にわたり掲載)
今回は、「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」の3回目(最終回)の記事となります。
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(日本橋横山町問屋街)
前回の記事で散策した浜町川跡の後は、日本橋馬喰町方向に戻り、「横山町問屋街」を散策してみます。
その前に、今回の「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」の散策エリアを再度掲載します。①、②は前々回、前回の記事で散策したので、今回は「③」のエリアとなります。
(出典:中央区企画部広報課)
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横山町問屋街には、大きいサイズの専門店「サカゼン」本店、
旗の専門店、
白衣の専門店、
などがあり歩くだけでも楽しめます
参考記事:日暮里にある繊維街については「日暮里・鶯谷の東側を散策(最終回):日暮里繊維街/藤の大滝/コリアタウン」を参照。
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(元々の両国は日本橋にあった)
「両国橋」は、武蔵国と下総国の2つの「国」を結ぶ橋だったため「両国橋」と通称され(両国橋が作られた万治2年(1659年)時点では、隅田川が武蔵国と下総国の国境でした)、
本来の両国は、武蔵国側(現在の中央区日本橋側)の呼び名でした。
江戸時代の地図にも、隅田川の西側に「両国廣小路」が描かれており、
(出典:「東京時代MAP」(光村推古書院) 29ページ)
隅田川の西側の東日本橋には「両国広小路の碑」が置かれています。
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この「両国広小路の碑」の裏側には、両国広小路ができた経緯とともに、
「広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしている」「由緒ある両国広小路の旧跡を長く保存するためにこの碑を建てた」と書かれています。
江戸時代、この「両国広小路」は江戸最大の盛り場で、
見世物・猿芝居・講談・易者・茶屋や軽飲食の店などが軒を並べる賑やかで楽しい場所でしたが、その面影は今はありません。
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(両国郵便局)(日本橋両国のプレート)
その後、明治時代になって「両国駅」の開業や「両国国技館」の開館に伴い、隅田川を挟んだ東西の地名を両国と言うようになり、
昭和46年(1971年)の住居表示の変更により、日本橋両国は他の町と併せて「東日本橋」となり両国の名称が消えてしまいました。
しかし、東日本橋には今でも「両国郵便局」があり、日本橋両国時代の数少ない痕跡をとどめています。
下の写真は「両国郵便局」の写真ですが、そばの住所表示は「東日本橋」になっています。
また、東日本橋二丁目町会会館内には「両国(日本橋両国)」のプレートが置かれています。
(写真撮影、本ブログへの掲載の許可をいただいています)
このプレートの由来について、東日本橋二丁目町会会館の方に伺ったのですが「由来は分からない」とのことでした。
市電(都電)の停車所に置かれていたプレートなのかもしれませんが、その由来を知りたいものです。
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(柳橋)
この「両国広小路」を進むと、神田川に掛けられている美しい柳橋や
尾形舟の風景を見ることができます。
参考記事:柳橋界隈を散策した記事です。
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(薬研堀不動院)
また、この近くには。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られる「薬研堀不動院」があります。
薬研堀不動院は神田祭で神幸祭の行列が立ち寄る「両国旧御仮屋」の置かれる場所でもありますが、
この「両国旧御仮屋」の名称も、この地域が「両国」であったことを示すものです。
下の薬研堀不動院の駐車場は「両国旧御仮屋」として使用される場所。
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(キンチョー東京支社)
この薬研堀不動院のそばに殺虫剤など衛生薬品を扱うキンチョー東京支社があります。
本社は大阪ですが、ここを訪れて「キンチョー」の正式社名が「大日本除虫菊株式会社」(だいにほんじょちゅうぎく)であることを初めて知りました。
明治18年(1885年)創業の際、除虫菊を元に線香を製造したことを忘れないように「大日本除虫菊」の社名を堅持しているそうです。
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これで、「吉田松陰が投獄された小伝馬町牢屋敷~日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策(1)」から3回にわたって掲載した「日本橋小伝馬町・浜町川跡・東日本橋散策サブシリーズ」を終了します。
次回の記事からは、人形町にあった元吉原に通じる親父橋跡、西郷隆盛屋敷跡などを散策する「日本橋小網町・人形町1丁目散策サブシリーズ」を掲載します。
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