「武田鉄矢の自宅」と「世田谷城」を探訪しながら散策~世田谷線の旅(6):世田谷城址公園
- 2022/02/01
- 13:34
ピエール瀧の自宅、ガクトの旧宅を探訪しながら散策しました。
今回は、「武田鉄矢の自宅」と「世田谷城跡」を探訪しながら世田谷線の旅を続けます。
(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人関連のカテゴリ」がありますので、ご関心のある方はこちらを御覧ください。
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(上町駅)
前回の記事で訪れた世田谷駅の次の駅である「上町駅」(かみまちえき)で降ります(下の写真)。
この界隈には、世田谷城があった「世田谷城址公園」(下の写真)があるので、そこに行ってみます(世田谷区豪徳寺2-14-1)。
なお、「世田谷城址公園」に行く途中に、『「世田谷線沿線の地元イタリアンカフェ」と「招き猫発祥の地」』でご紹介したレストラン「カフェトレジャー」があります。
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(世田谷城址公園①:江戸時代前の城)
東京にある「城」というと、江戸時代から現在に至るまで江戸城しかありませんが、
江戸時代以前は、東京にも多くの「城」がありました。
江戸時代以前は武士の群雄割拠の時代で、武士たちは自らの領地を守るために「城」が必要だったためです。
私たちが訪れている「世田谷城」もそのような城の一つです。
現代で「城」というと壮大な石垣や堀に囲まれ天守閣のある、平地に造られた下の写真のような「美しい平城(ひらじろ)」を想像します。
(ちなみに、上の写真は江戸城の堀と桜田巽櫓(さくらだたつみやぐら)を撮影したものですが、江戸城の撮影スポットの中でも美しい場所として知られているところです)
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しかし、江戸時代以前の「城」は、低地や川を臨む高台に造られ、土塁と空堀に囲まれた「山城(やまじろ)」でした。
下の写真は、東京国際フォーラムに展示されている江戸時代以前の江戸城(太田道灌が築城した江戸城)ですが、このような無骨なイメージの城が「山城」です。
(出典:東京国際フォーラム)
このような「山城」であった世田谷城は天正18年(1590年)の廃城以降放置されていたため、土塁、空堀など当時の様子が比較的残っています(下の写真。石垣、石橋は近代になって造られたもの)。
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(世田谷城址公園②:防御のための地形を利用した城造り)
下の写真は、宮の坂駅前にある地図を筆者が加工したものです。世田谷城は「豪徳寺」と「世田谷城址公園」を含めた広い敷地にありました。
世田谷城は周囲を大きく迂回して流れる烏山川を天然の堀として利用し築城されたことがよく分かります。
また、下の写真は「世田谷区立郷土資料館」にあるジオラマの拡大写真ですが、ここからも世田谷城が「烏山川」を天然の堀として利用し、防御に適する高台に造られたことが分かります。
(出典:世田谷区立郷土資料館)
なお、別の記事(『「水車の名残」と「古道・瀧坂道」を探訪しながら散策~世田谷線の旅(8)』)で詳しく述べますが、世田谷城の北側に走っている古道・瀧坂道(たきさかみち。「滝坂道」とも書く)も防御の観点からクランク状の形状になっています。
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(世田谷城址公園③:吉良上野介と縁戚)
世田谷城は鎌倉時代の後期(14世紀)に、吉良治家(きら はるいえ)が世田谷を領したのが始まりと言われています。
「古関裕而の旧宅跡~代田・代沢散策(2)」でご紹介した「斎田記念館」にある齊田家の祖先は吉良氏の家臣でした。
「吉良」といえば、忠臣蔵で悪者扱いされている「吉良上野介」が有名ですが、
この吉良上野介と世田谷の吉良家は縁戚の関係にあります。縁戚と言っても平安時代の末期に分かれた縁戚ですので「遠い縁戚」になります。
吉良家は、もともとは源氏系の足利氏で、平安末期に三河吉良氏と奥州吉良氏に分かれ、前者の子孫が吉良上野介、後者の子孫が世田谷吉良氏となりました。
なお、毎年12月になると「忠臣蔵」の特集番組が組まれるように、赤穂浪士は今も昔も日本人の間で人気がありますが、
吉良上野介は不当に悪者扱いされており(つまり、赤穂浪士は過大評価されており)、再評価されるべきだと思っています。
下の写真は、墨田区両国にある「吉良上野介邸跡」。
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(武田鉄矢の自宅)
この界隈には、金八先生で有名な武田鉄矢の自宅があります(下の写真)。
ガレージの奥には瀟洒な庭がありました。
武田鉄矢は自転車でこの界隈を散策しているそうです。
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次回の記事では、豪徳寺を訪れ井伊直弼の死亡日の謎に迫ります。
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