港区の尾根道を歩く(3):三田台公園・お化粧地蔵・亀塚公園・御田八幡神社
- 2018/06/10
- 15:21
港区の尾根道を歩く(2)の続きです。
前回は泉岳寺まで行きました。
(枝光付属幼稚園)
泉岳寺から二本榎通りに戻り、三田台公園に進みます。
途中にお受験で有名な枝光付属幼稚園の看板がありました。
田中康夫の「なんとなく、クリスタル」にこの界隈のことが描かれているそうです。

☆☆☆
(三田台公園)
三田台公園に着きました。

ここは港区唯一の遺跡公園です。竪穴住居跡と貝塚の断面が復元・展示されていて大変興味深いです。私が訪れたときはちょうど昼休み時間だったのですが、多くの会社員がベンチに座ってランチを食べていました。
私も港区の尾根道を歩く(2)で買ったメロンパンをベンチに座って食べました。
なお、このあたりは港区の「三田」地区ですが、目黒区にも「三田」という地名があります。
かっては、「三田」地区は港区から目黒区にかけての広い地域で「御田郷(みたごう)」と呼ばれており同一の地域でした。
目黒区のHPによれば以下のとおりです。
(お化粧地蔵)
先に進むと亀塚公園ですが、その前に幽霊坂を見てみます。東京には幽霊坂と呼ばれる坂がいくつかありますが、この坂もその一つです。

説明書きには次のように書かれていました。
幽霊坂を降りていくと、玉鳳寺(ぎょくほうじ)に「お化粧地蔵」という変わったお地蔵様があります。玉鳳寺は江戸時代に移転してきた寺院ですが、この「お化粧地蔵」はそれ以前からあったと言われています。
江戸時代に、この地蔵に白粉(おしろい)を塗ると肌の病に効くという話が広まり、多くの人が地蔵に白粉を塗って参拝するようになったとのことです。今でも。ベビパウダーが置かれていて参拝の人が絶えません。

(亀塚公園)
二本榎通りに戻り亀塚公園に行きます。

亀塚公園の中には円墳上の盛土があり亀塚と呼ばれています。副葬品などは見つかっておらず、古墳とは確認できないとのことですが、近くの三田台公園に貝塚があり人々が住んでいたことを考えると古墳の可能性は高いと思われます。

また、この亀塚公園は平安時代に書かれた更級日記に記されている「竹芝寺」の伝説地とも伝えられている歴史的に重要なところです。
ここは明治以降、華頂宮邸があり、宮家が途絶えると内大臣邸として利用されていました。
今でも宮廷時代の外壁が残されています。

また、公園の屏にはポスト(郵便受け)のある勝手口の痕跡が残されていて興味深いです。

昭和7年(1932年)5月15日、海軍の青年将校が起こした反乱事件である「五・一五事件」が起きた時、当時内大臣であった牧野伸顕がここに住んでいましたが、反乱軍の襲撃を受けたそうです(牧野内大臣は無事でしたが、犬養首相は銃殺されました)。
この勝手口あたりで銃撃戦があったのかもしれません。
(御田八幡神社)
この亀塚公園の下には「御田八幡神社(みたやわたじんじゃ)」があります。この「御田」が「三田」の語源になったとも言われています。和銅2年(709年)創建ということですので非常に古い神社です。

(済海寺)
さらに行くと、浄土宗の寺院である済海寺があります。安政6年(1859年)にフランス総領事館、2年後には公使館となりました。この碑が境内に残されています。

高輪には幕末にイギリス公使館が置かれていた東禅寺がありますが、この界隈には今でも各国の大使館が多くあります。これも幕末以来の伝統といえると思います。
なお、この済海寺は先程の亀塚公園とともに「竹芝寺」伝説の跡地とされています。(続きます)
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(関連記事)港区の尾根道を歩く(2)
前回は泉岳寺まで行きました。
(枝光付属幼稚園)
泉岳寺から二本榎通りに戻り、三田台公園に進みます。
途中にお受験で有名な枝光付属幼稚園の看板がありました。
田中康夫の「なんとなく、クリスタル」にこの界隈のことが描かれているそうです。

☆☆☆
(三田台公園)
三田台公園に着きました。

ここは港区唯一の遺跡公園です。竪穴住居跡と貝塚の断面が復元・展示されていて大変興味深いです。私が訪れたときはちょうど昼休み時間だったのですが、多くの会社員がベンチに座ってランチを食べていました。
私も港区の尾根道を歩く(2)で買ったメロンパンをベンチに座って食べました。
なお、このあたりは港区の「三田」地区ですが、目黒区にも「三田」という地名があります。
かっては、「三田」地区は港区から目黒区にかけての広い地域で「御田郷(みたごう)」と呼ばれており同一の地域でした。
目黒区のHPによれば以下のとおりです。
十世紀初めに編さんされた「倭名類聚抄」によると、古代、武蔵国荏原郡に「御田郷(みたごう)」と呼ばれる土地があり・・・(中略)・・・明治半ばまで旧目黒六か村の一つであった三田村の地は、古くは、港区の三田とともに、この「御田郷」に属していたと推定され・・・(中略)・・・こうした経緯から、港区三田と目黒の三田は、ともに今日まで、現在港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にある。
(目黒区HPより)
(お化粧地蔵)
先に進むと亀塚公園ですが、その前に幽霊坂を見てみます。東京には幽霊坂と呼ばれる坂がいくつかありますが、この坂もその一つです。

説明書きには次のように書かれていました。
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七ヶ所ほどもある。
(幽霊坂説明書きより)
幽霊坂を降りていくと、玉鳳寺(ぎょくほうじ)に「お化粧地蔵」という変わったお地蔵様があります。玉鳳寺は江戸時代に移転してきた寺院ですが、この「お化粧地蔵」はそれ以前からあったと言われています。
江戸時代に、この地蔵に白粉(おしろい)を塗ると肌の病に効くという話が広まり、多くの人が地蔵に白粉を塗って参拝するようになったとのことです。今でも。ベビパウダーが置かれていて参拝の人が絶えません。

(亀塚公園)
二本榎通りに戻り亀塚公園に行きます。

亀塚公園の中には円墳上の盛土があり亀塚と呼ばれています。副葬品などは見つかっておらず、古墳とは確認できないとのことですが、近くの三田台公園に貝塚があり人々が住んでいたことを考えると古墳の可能性は高いと思われます。

また、この亀塚公園は平安時代に書かれた更級日記に記されている「竹芝寺」の伝説地とも伝えられている歴史的に重要なところです。
ここは明治以降、華頂宮邸があり、宮家が途絶えると内大臣邸として利用されていました。
今でも宮廷時代の外壁が残されています。

また、公園の屏にはポスト(郵便受け)のある勝手口の痕跡が残されていて興味深いです。

昭和7年(1932年)5月15日、海軍の青年将校が起こした反乱事件である「五・一五事件」が起きた時、当時内大臣であった牧野伸顕がここに住んでいましたが、反乱軍の襲撃を受けたそうです(牧野内大臣は無事でしたが、犬養首相は銃殺されました)。
この勝手口あたりで銃撃戦があったのかもしれません。
(御田八幡神社)
この亀塚公園の下には「御田八幡神社(みたやわたじんじゃ)」があります。この「御田」が「三田」の語源になったとも言われています。和銅2年(709年)創建ということですので非常に古い神社です。

(済海寺)
さらに行くと、浄土宗の寺院である済海寺があります。安政6年(1859年)にフランス総領事館、2年後には公使館となりました。この碑が境内に残されています。


高輪には幕末にイギリス公使館が置かれていた東禅寺がありますが、この界隈には今でも各国の大使館が多くあります。これも幕末以来の伝統といえると思います。
なお、この済海寺は先程の亀塚公園とともに「竹芝寺」伝説の跡地とされています。(続きます)
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(関連記事)港区の尾根道を歩く(2)