著名人の自宅を探訪~代田・代沢散策(4):服部克久/河口慧海/萩原朔太郎/円乗院
- 2021/08/21
- 00:59
舛添要一、白竜、古関裕而の自宅、キャンディーズのミキの旧宅跡を探訪しながら梅ヶ丘、代田を散策しました。
今回は、世田谷区の代田を散策しながら、服部克久の自宅や文士・著名人の旧宅跡を探訪します。
(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人関連のカテゴリ」がありますので、ご関心のある方はこちらを御覧ください。
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(服部克久の自宅)
前回の記事で探訪した古関裕而の自宅近くには、作曲家・服部克久の自宅があります(下の写真)。
玄関には「服部克久」の表札が今でも残されています。
「芸術家が好んだ街~代田・代沢散策(1)」の「帝国高等音楽学校跡」の項目で、
「鉄塔の下は住民が住むことが少ないため、音を出す音楽学校や音楽家にとっては都合の良い場所でした」と書きましたが、
この理論通り、鉄塔の下近くにあります。
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(河口慧海終焉の地)
また、鉄塔近くには、日本人として初めてチベットに入国し、仏教やチベットに関する多くの著作を残した黄檗宗の僧侶・河口慧海(かわぐち えかい)の自宅跡があります。
現在は公園となっており、
顕彰碑が建てられています。
(萩原朔太郎旧宅跡)
同じく、鉄塔下(61号鉄塔下)には、
「日本近代詩の父」と言われる詩人・萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)旧宅跡に関する小さな説明版があります。
萩原朔太郎は、この鉄塔下付近に住んでいました。
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北沢川緑道には萩原朔太郎旧居跡の立派な説明版が建っていますが(下の写真)、住居跡としてはこちらの小さな説明版の方が近い場所に置かれています。
(注)前橋文学館の萩原朔太郎年譜によれば、萩原朔太郎が世田谷区代田に住み始めたのは、昭和8年1月頃で、それ以前は東京府馬込村(現大田区)、牛込区市ヶ谷台町(現新宿区)に住んでいました。
下の写真は、「岸谷五朗・奥井香夫妻の自宅を探訪~臼田坂散策(4)」でご紹介した、萩原朔太郎が大田区馬込に住んでいた旧宅跡の説明版。
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(円乗院)
さらに坂を下っていくと、北沢川緑道沿いに「円乗院」があります。
古関裕而は平成元年(1989年)8月に亡くなりましたが、葬儀は自宅近くのこの「円乗院」で行われました。
古関裕而は早稲田と慶応の応援歌を作曲しましたが(早稲田は「紺碧の空」、慶応は「我ぞ覇者」)、
古関裕而の葬儀の際は、早稲田と慶応の応援団が参列し、両校の旗を掲げて柩を見送ったそうです。
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また、この「円乗院」には第二次大戦中の米軍による空襲で焼けた高野槙(コウヤマキ)が残されています。
説明版には「第二次大戦中の昭和20年5月25日の空襲の戦果を浴び焼失したもので、
戦争の痛ましさを忘れぬために保存しました」と書かれています。
このようなものも戦争遺産と考えられますが、説明版に書かれているように「戦争の痛ましさを忘れぬために」今後とも保存していただきたいと思います。
参考記事:日本橋の焼夷弾の跡については「【日本橋】橋梁としての日本橋探索(2):麒麟像・獅子像/焼夷弾の跡/日本橋魚河岸」で書いたことがあります。
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(せせらぎ茶屋)
北沢川緑道を挟んだ「円乗院」の前に「せせらぎ茶屋」があります(世田谷区代田1-39-9)。
私は北沢川緑道を歩きながら代田・代沢散策をしたのですが、休息するには好都合の場所にある甘味処です。
こじんまりした綺麗な室内で、
私たちは白玉あんみつ(税込み 700円)と
クリーム白玉あんみつ(780円)をいただきました。
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(北沢川のせせらぎ)
この「せせらぎ茶屋」のある場所からは、その名の通り北沢川のせせらぎを見ることができます。
しかし、下の看板にあるように、このせせらぎの水は自然の水ではなく、「下水の再生水」となっています。
このため、一時的に水が流れなくなることがあるので、フナやコイなどの生き物を放さないようにとの注意書きがあります。
「古関裕而の旧宅跡~代田・代沢散策(2)」でも書きましたが、緑道を整備するのはいいのですが、昔からある遺構を残しながら整備して欲しいと思います。
(萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔)
北沢川緑道を下流方向に歩いていくと、上述したように「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」の説明版があります(下の写真)。
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次回の記事では代田を散策しながら、中島みゆきなど芸能人・著名人の自宅を探訪します。
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