【新川】「永代橋」周辺を散策~見どころの多い中央区新川を散策(2):江戸時代の永代橋はどこに架けられていた?/赤穂義士休息の地
- 2021/03/28
- 09:44
茅場町駅から霊岸橋を渡り、江戸時代に埋蔵金のあった場所(日清オイリオ本社)を経て、旧山一證券跡地まで歩きました。
今回の記事では、中央区と江東区の区境になっている隅田川に架かる「永代橋」周辺を散策してみます。
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(参考:今までの日本橋地区の散策記事)
日本橋散策については、今までに以下の4つのサブシリーズを掲載してきました。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
今回は、番外編として日本橋地区に隣接する「新川」を散策するシリーズになります。
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(今回歩くエリアの地図)
新川地区と今回歩くエリアの地図を掲載します。永代橋を渡って中央区から江東区側にも足を延ばします(下の写真は、豊海橋を渡った場所に置かれている地図を筆者が加工したもの)。
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(永代橋)
前回の記事で見た旧山一証券ビル(RBM本社ビル)の先には、隅田川に架かる「永代橋」があります(下の写真)。
今、私達が歩いている「永代通り」の由来となった橋です。
「永代橋」は美しい橋で、上流にある「清洲橋」(下の写真)とワンセットになって、
「土木学会選奨土木遺産」に指定されています。
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また、「永代橋」は筋骨隆々とした男性的なイメージの橋、「清洲橋」は優美な下垂曲線を描く女性的なイメージの橋という説明がなされています(拡大写真には筆者が加工を加えています)。
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下の写真は、女性的なイメージとされている「清洲橋」。
「清洲橋」については「日本橋散策シリーズ」の中で別の機会(「【日本橋】日本橋浜町→深川散策(2)」)に詳しく書く予定です。
(参考記事)工事中だった当時の「清洲橋」については、「清澄白河のレトロを散策(2)」を参照ください。
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さて、江戸時代、この永代橋はここから100メートルほど上流にあったのですが、それを調べに行きたいと思います。
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(赤穂浪士関連の碑)
永代橋を渡って江東区に入ってみます。
永代橋を渡り、左に曲がると「赤穂義士休息の地」碑が置かれています。
碑の作成者の名前は「ちくま味噌16代 竹口作兵衛識」と書かれているのですが、
その碑には、次のように書かれています(太文字は筆者)。
「赤穂四十七士の一人大高五子葉は 俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角 の門下として俳界の友でありました。
元禄十五年十二月十四日討入本懐を 遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、 あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の 日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。」
この碑の記述が正しければ、赤穂浪士達はここで知り合いの「ちくま味噌」初代から甘酒を振る舞われ、後述する、江戸時代にあった「旧永代橋」を渡って泉岳寺に赴いたことになります。
なお、毎年12月14日の討ち入りの日には、この碑の場所で、「ちくま味噌」による甘酒の試飲と販売が行われます。
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(豊海橋を渡る)
永代橋の手前を右に曲がり、豊海橋(とよみばし)を渡ります。
「豊海橋」は小さな橋ですが、独特の形をした美しい橋です。
「豊海橋」から男性的なイメージとされる「永代橋」を見ることができます(下の写真)。
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(江戸時代の永代橋はどこに架けられていた?)
「豊海橋」を渡ると、江戸時代にあった「旧永代橋」の中央区による説明板があります。説明版の向こうに見える橋が「現在の永代橋」です。
中央区の説明版では、江戸時代には、このあたりに「永代橋」が架けられていたと書かれています。
他方、旧永代橋跡については、中央区の説明版の位置より少し上流の江東区側にも、作成者不明の説明板(レリーフ)が置かれています。
このように、中央区側と江東区側で「江戸時代にあった永代橋」の位置が少し違うのですが、なぜ位置が異なるのでしょうか?
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江戸時代、永代橋は何回か架け換えが行われたので、時代による位置の違いかもしれません。
しかし、少なくとも幕末時の永代橋は、中央区の説明板があった位置にありました(以下の写真は「東京時代MAP(大江戸編)」を筆者が加工したもの)。
(出典:「東京時代MAP(大江戸編)」光村推古書院 47ページ)
したがって、少なくとも幕末期における「旧永代橋」の位置については、中央区側の説明が正しいと思われます。
また、先程の「赤穂義士休息の地」碑は、中央区の説明板の隅田川のちょうど向こう側にありますので、赤穂浪士たちが甘酒を振る舞われ、旧永代橋を渡ったことに矛盾は生じません(ただし、赤穂浪士の討ち入りは元禄15年(1702年)ですので、幕末の出来事ではありません)。
なお、この中央区の説明板の置かれた場所から、映画やドラマのロケ地としてよく使われる「隅田川テラス」に行くことができます。
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次回は、新川の地名の由来となった新川跡をたどります。
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