【新川】江戸時代の埋蔵金を発見!!~見どころの多い中央区新川を散策(1)
- 2021/03/14
- 07:15
日本橋の各エリアの散策記事を掲載中ですが、
前回の「【日本橋】橋梁としての日本橋探索(最終回)」で、橋としての日本橋シリーズを終了しました。
今回からは、日本橋の番外編として、中央区の新川地区を散策してみます。
日本橋と比べると存在感の少ない新川地区ですが、散策すると多くの見どころを見つけることができるエリアです。
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(参考:今までの日本橋地区の散策記事)
日本橋散策については、今までに以下の4つのサブシリーズを掲載してきました。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
今回は、番外編として日本橋地区に隣接する「新川」を散策するシリーズになります。
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(新川の位置)
下の地図は、地下鉄「茅場町駅」前にある地図を加工したものですが、茅場町駅からすぐのところにある地区が「新川」になります(四方が川で囲まれています)。
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(霊岸橋を渡る)
茅場町駅から永代通りを歩き、霊岸橋(れいがんばし)を渡ります。
霊岸橋の左手には、日本橋川と亀島川の分岐点に「日本橋水門」が見えます。
江戸時代初期に、新川の地に「霊巌寺」があり、この地は「霊岸島」と呼ばれていました。
しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火で「霊巌寺」は深川に移転し、その後、この地区は「新川」と呼ばれるようになりました。
下の写真は台東区深川にある現在の霊厳寺(霊厳寺については、「江東区深川の名所を歩く(2):清澄通り・お洒落カフェ・霊厳寺」を参照)。
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(湊橋)
霊岸橋を渡り、永代通りを歩いて左に曲がると「湊橋」(みなとばし)があります。
小さな橋ですが、延宝7年(1679年)につくられた橋で(現在の橋は関東大震災後に再建されたもの)、江戸名所図会にも描かれている由緒ある橋です(下の写真は湊橋に置かれている説明版を部分拡大したもの)。
また、湊橋のたもとには、小便小僧がある珍しい公衆トイレがあります(^^
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(河村瑞賢屋敷跡)
永代通りに戻り右手を見ると、中央区教育委員会による「河村瑞賢屋敷跡」の説明板があります。
河村瑞賢は明暦の大火の際に材木を買い占め莫大な利益を得た商人で、東廻り航路・西廻海運を開き、また治水等の事業を行い、その功績により幕府から旗本に列せられた人物ですが、
この河村瑞賢がこの「新川」に広大な屋敷を構えていたそうです。
下の写真は、出身地である三重県の川村瑞賢公園にある川村瑞賢の銅像。
(出典:Wikipedia)
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(日清オイリオ本社:江戸時代の埋蔵金の発見)
さらに永代通りを進んでいくと、右手に「日清オイリオ本社」があります。
東京オリンピック前年の昭和38年(1963年)、ここの工事現場から天保小判など江戸時代の金貨が見つかりました。10億円近い額の金貨だったそうで、
この地にいた豪商・9代目鹿島清兵衛が埋めたものと分かり、その子孫に返還されました。
(出典:日清オイリオ 2015コーポレートレポート)
上で、この地に河村瑞賢が住んでいたことを書きましたが、江戸時代、新川は海運が盛んで酒問屋が多く集まっていた場所であり、大いに繁栄した地であったことが窺えます。
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(旧山一證券跡地:RBM)
「日清オイリオ本社」の斜め向かいには、RBM(レジデンス・ビルディング・マネイジメント株式会社)の本社ビルがあります。
ここは、平成9年(1997年)に経営破綻した山一證券があった場所です。
山一證券最後の会見で、当時の野澤社長が「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから」と号泣した場面は、金融バブル崩壊の象徴として今でも時々報道されます。
Wikipediaによれば、「野澤の男泣きは、野澤だけではなく山一の一般社員に対する世間の同情を大いに集める結果となり、野澤や社員の再就職に際しては大いに貢献」したそうです。
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次回は、中央区と江東区の区境である隅田川に架かっている「永代橋」周辺を散策します。
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