新宿に「鉛筆の碑」があった~新宿で渋谷川の上流を歩く(最終回):多武峯内藤神社/鉛筆の碑/斎藤茂吉終焉の地
- 2021/02/13
- 08:10
四谷大木戸跡、玉川上水余水吐遺構を見てきました。
今回は、「新宿で渋谷川の上流を歩く」シリーズの最終回として、
「區谷四」の表札や「鉛筆の碑」など珍しいものを見てみます。
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【参考記事】今回の「新宿で渋谷川の上流を歩くシリーズ」以外の新宿散策記事として、次の2つのシリーズがあります。
(参考シリーズ1)新宿駅構内とその周辺の散策記事として、以下の4つのサブシリーズに分けて掲載した「新宿駅構内及び新宿駅周辺散策シリーズ」があります。
2回にわたって、山手線の一番高い地点や駅のホームにある謎の供養塔などを探索します。
4回にわたって、歌舞伎町など新宿駅の東口地域を散策します。
2回にわたって、バスタ新宿、新宿サザンテラスなどを散策します。
2回にわたって、西口広場や思い出横丁などを散策します。
(参考シリーズ2)ゲイタウンとして知られる新宿2丁目界隈を散策し、江戸時代の遊郭からの継承としてゲイタウンがあることを書いた記事として、『「お寺」と「ゲイタウン」シリーズ』があります。
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(「區谷四」の表札:東京35区)
前回の記事で訪れた「玉川上水余水吐」遺構付近の住宅に「區谷四」と書かれた表札がありました。
(旧住居表示のため現在の場所を特定することは困難なことから全住所を開示しています)
現在の新宿区は昭和22年(1947年)に「四谷区」、「牛込区」、「淀橋区」の3区が合併して新宿区になったので、
この「區谷四」と書かれた表札はそれ以前からあった表札ということになります。
東京23区は比較的新しい制度で、昭和22年(1947年)以前は東京35区であったことについては、
などの記事で書いたことがあります。
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(多武峯内藤神社)
また、この近くには内藤家の邸内に建てた「多武峯内藤神社」(とおのみねないとうじんじゃ)があります。
徳川家康の側近だった内藤清成は、この付近一帯の広大な土地を屋敷地として賜りましたが、
土地を与えられた時の伝説にちなんだ「駿馬塚」、「白馬像」が境内にあります。
「駿馬塚」の案内板には、
「徳川家康は江戸入府後、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語ったという。
清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられる。」
と、内藤家が広大な土地を賜った経緯が書かれています。
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(鉛筆の碑:水車を動力にして鉛筆が作られた)
この「多武峯内藤神社」に隣接する場所に、三菱鉛筆株式会社から寄贈された「鉛筆の碑」があります。
この「鉛筆の碑」は、水車を回せるだけの豊かな水量が「玉川上水余水吐」にあったことを示すものです。
下の写真は「鉛筆の碑」の横に置かれた説明版です。
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その説明版には、三菱鉛筆発祥の地について、以下のような説明が書かれています。
「この地(多武峯内藤神社西方付近)は、明治20年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。30年後の大正5年(1916)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠(あんきょ)となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。」
下の写真は説明板にある当時の水車を拡大したものです。
大正頃までは、新宿にはこのような水車がある田園地帯があったのでした。
なお、三菱鉛筆は「三菱」の名がついていますが、三菱財閥の流れをくむ三菱グループ企業とは別の会社です。
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(斎藤茂吉終焉の地)
最後に、四谷四丁目交差点付近にある「斎藤茂吉終焉の地」まで行ってみます(新宿区大京町22−2)。
斎藤茂吉は歌人であるとともに、東京帝大卒業の精神科医でもありましたが、その経営する「斎藤神経科」がこのビルにありました。
随筆家・小説家の北杜夫は斎藤茂吉の次男です。
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今回で、「新宿駅の喧騒を離れた静寂に浸る~新宿で渋谷川の上流を歩く(1)」から3回にわたって掲載した「新宿で渋谷川の上流を歩く」シリーズを終了します。
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