【日本橋】橋梁としての日本橋探索(最終回):高札場/罪人の晒し場/熈代勝覧/今川橋
- 2021/02/05
- 09:05
前回の「【日本橋】橋梁としての日本橋探索(2):麒麟像・獅子像/焼夷弾の跡/日本橋魚河岸」では、麒麟贈・獅子像、焼夷弾の跡、日本橋魚河岸について見てきました。
今回は、「橋梁としての日本橋サブシリーズ」の最終回として、「花の広場」、「滝の広場」、「熈代勝覧(きだいしょうらん)」を見ながら、江戸時代からの歴史の継続性について考察してみます。
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【参考:今までの日本橋散策シリーズまとめ】
日本橋散策については、今回のサブシリーズである「橋梁としての日本橋サブシリーズ」を含め、今までに以下の4つのサブシリーズを掲載してきました。この日本橋シリーズは今後も継続します。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
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(高札場と観光案内所)
南詰の西側には「花の広場」があります。
「花の広場」にある高札(こうさつ・たかふだ)を模した説明板には、重要文化財に指定されている「日本橋」についての説明が書かれており、その横には日本橋の観光情報を伝える「日本橋観光案内所」が置かれています。
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江戸時代には、この場所に高札場がありました。
「熈代勝覧(きだいしょうらん)」や
歌川広重の浮世絵にも「高札場」が描かれています(下の写真は、歌川広重の浮世絵を筆者が加工したもの)。
(出典:Wikipedia)
高札場とは幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書を人々に知らしめるために、板札を高く掲げておく場所のことですが、
「江戸時代の高札場」も「現代の観光案内所」も、人々に情報を伝えるとい点で共通しています。
なお、現在ある「日本橋観光案内所」近くには、『「榮太樓本舗日本橋本店で食事・あんみつ」と「プチ日本橋散策」』でご紹介した「榮太樓本舗日本橋本店」があり、榮太樓本舗の興味深い歴史について書いています。
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(罪人の晒し場と交番:歴史の継続性)
南詰の東側には「滝の広場」があり、
船で川巡りのできる場所になっています。
また、この「滝の広場」には交番が置かれています。
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江戸時代、この場所(日本橋南詰の東側)には、「罪人の晒し場」がありました(下の写真は、Wikipediaから引用した「不貞による晒し刑」)。
(出典:Wikipedia)
心中の死にそこない、女犯の僧侶、主人を殺傷した者が中心だったとされ、早朝に小伝馬町の牢を出て、さらし場の小屋につながれ、暮れの七ツ時(午後4時)に戻されたそうです
このような「罪人の晒し場」は、不浄・負のイメージを伴うため、熈代勝覧、歌川広重の日本橋には描かれていません。
「罪人の晒し場」は、通りを挟んで「高札場」の向かい側にあったのですが、
冒頭で掲載した「熈代勝覧」・「歌川広重の浮世絵」ではぼかしたり、塀で隠したりして見えないようにしています。
また、現在でも、負のイメージを嫌ってか、そのことを記した説明版は置かれていません。
さらに、この「罪人の晒し場」があった場所に、治安維持を行う「交番」が現在あることも興味深いことです。
「罪人の晒し場→交番」、上述の「高札場→観光案内所」という共通点をもった施設が江戸時代から現在まで引き継がれていることは、歴史の継続性を感じさせ興味深く感じます。
なお、交番の後ろには、昭和5年(1930年)に建てられたレトロな野村證券本社ビルがあります。
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(羽田空港国際ターミナルにある日本橋)
羽田空港国際線ターミナルには、吉野産の総檜造りで、幅・長さとも当時の日本橋のおよそ半分のサイズで復元された「日本橋」があります(下の写真)。
半分のサイズとはいえ、ここでは、実際に橋を歩いて、江戸時代の日本橋を実感することができます。
参考記事:羽田空港にある日本橋については、『【羽田空港】「新宿老舗のアカシアの味を羽田空港で堪能」と「羽田空港の日本橋」』を参照ください。
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(熈代勝覧)
最後に、本ブログ、記事でたびたび引用している「熈代勝覧(きだいしょうらん)」ですが、
この原画は、海外の美術館(ベルリン国立アジア美術館所蔵)に所蔵され、そのレプリカが、東京の公共空間で展示されるものとして、日本橋「三越前」駅地下コンコース壁面に常設されています(下の写真)。
この「熈代勝覧」は文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた12メートルにも及ぶ大作で、当時の人々の様子が活き活きと描かれています。
そのごく一部をご紹介すると、
犬が描かれ、当時は野良犬や放し飼いの犬が多かったことが分かりますし、
子供を寺子屋に連れて行こうとするが、腰が引けて寺子屋に行くのを嫌がっている子供が描かれ、今も昔も親子の関係は変わらないことが見てとれます。
幕末から明治にかけて、価値ある伝統芸術品が破壊されたり、外国に流出してしまいましたが、この「熈代勝覧」もそのような経緯でヨーロッパに流出したものと考えられます。
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(今川橋:中央区と千代田区の区境)
また、「熈代勝覧」に描かれている風景の左端は「日本橋」で、
右端は「今川橋」になっています。
「今川橋」が架けられていた「竜閑川(りゅうかんがわ)」は埋め立てられ橋はなく、「今川橋跡」の碑があるのみですが、
現在でもここは中央区と千代田区の区境になっていて、ここでも江戸時代からの歴史の継続性が見られます(下の地図は通りに置かれている地図を筆者が加工したもの)。
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これで、「【日本橋】橋梁としての日本橋探索(1):元標の広場/道路元標」から3回にわたって掲載してきた「橋梁としての日本橋サブシリーズ」を終了します。
次回は日本橋散策の番外編として中央区新川を散策します。
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