江戸の名残を四谷で探訪~新宿で渋谷川の上流を歩く(2):四谷大木戸跡/玉川上水余水吐遺構
- 2021/01/08
- 09:00
新宿駅から天龍寺・新宿高校を経て、新宿御苑まで来ました。
新宿御苑から四谷大木戸付近まで散策してみます。
※本記事内容は、新型コロナウィルスが蔓延する以前に訪れたときの様子を書いたものです。したがって、現在の様子と異なる可能性があります。
★★★
★★★
(玉川上水について:驚嘆すべき土木技術)
前回の記事で歩いた「玉川上水を復元した水路」(下の写真)を歩いていると
散歩道の途中に「玉川上水の生い立ちと新宿」という説明板がありました。
「玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために玉川兄弟により承応3年(1654年)に解説された」ことが書かれています。
「渋谷川」は自然の川ですので、標高の低い谷筋に沿って流れますが、
「玉川上水」は人工的な川で標高の高い尾根沿いを流れるように設計されています。
電力のなかった江戸時代に、消費者である市民や農民に水を供給するためには、重量を利用して高いところから低いところに流す必要があったためです。
★★★
★★★
下の写真は、同じく散歩道の途中にある「玉川上水の流れをたどる」という説明板ですが、
多摩川の羽村堰から四谷大木戸までの約43キロメートルの玉川上水の流れが示されています。
「羽村堰」と「四谷大木戸」の標高差は92メートルで、100メートルに21センチメートルの標高差しかありませんでした。
現在のような精密な機器なしに、このような僅かな標高差を測量した江戸時代の技術には驚かざるを得ません。しかも、この玉川上水をわずか8ヶ月で作り上げたで完成させたとされており、驚嘆すべき土木技術です。
明治以降、日本は近代化を進めましたが、江戸時代からあったこのような素晴らしい技術が土台になっていたことは忘れてはならないと思います。
★★★
★★★
(四谷大木戸跡)
この散歩道を進むと、玉川上水の終着点である「四谷大木戸跡」に行き着きます。
江戸時代は、ここに設けられた木戸が「江戸」の範囲を示す区切りとされていました。 この先の「内藤新宿」は江戸から外れた宿場町となります。
下の写真は、新宿歴史博物館にある四谷大木戸の説明板と、
ジオラマの拡大写真です(どちらの写真も許可された場所から撮影したものです)。
玉川上水で運ばれてきた水は、この四谷大木戸から先は地下水道により江戸市中に運ばれていきました。
★★★
★★★
下の写真は、東京都水道歴史館で展示されている水道管(木樋)で、このような水道管(木樋)が江戸市中に敷設されていました。
(出典:東京都水道歴史館。写真撮影は許可されています)
なお、この「四谷大木戸跡」のそばには、「東京都水道局新宿営業所」のビルがありますが、
このビルの8階テラス(下の写真)で休息することができますので、散策途中に休むことができます。
また、9階のモスバーガーは展望が素晴らしいです。
★★★
★★★
(玉川上水余水吐遺構)
玉川上水の水は、四谷大木戸からは地下水道により江戸市中に運ばれたことは上述したとおりですが、
余った水を流す余水吐(よすいばけ)があり、この水が「新宿駅の喧騒を離れた静寂に浸る~新宿で渋谷川の上流を歩く(1)」で書いたように新宿御苑を流れている渋谷川支流と合流します。
この遺構が、新宿御苑脇に残されています。
★★★
★★★
この「玉川上水余水吐」を下っていくと、「神宮外苑を歩く(2):銀杏並木・聖徳記念絵画館・最古のアスファルト道」でご紹介した「四谷警察署大京町交番」(下の写真)のある場所まで行くことができます。
下の写真は、「四谷警察署大京町交番」脇にある玉川上水跡です。玉川上水跡の中に交番が建っています。
この先で、「玉川上水余水吐」は前回の記事で書いた天龍寺を水源とする渋谷川の支流と合流します。
(沖田総司逝去の地)
この「四谷警察署大京町交番」のそばに、「伝 沖田総司逝去の地」という案内板があります。
新選組の剣豪であった沖田総司の終焉の地については諸説あるようで、この案内板に「伝」と書かれているように、この地が終焉の地であるかは確証がないことを示しています。
★★★
★★★
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙
☆☆☆
次回は、「新宿で渋谷川の上流を歩く」シリーズの最終回として、「四谷區」の表札や「鉛筆の碑」など珍しいものを見ていきます。
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙

