「お寺」と「ゲイタウン」~新宿2丁目散策(2):成覚寺/正授院
- 2020/12/25
- 08:11
※本記事内容は、新型コロナウィルスが蔓延する以前に訪れたときの様子を書いたものです。したがって、現在の様子と異なる可能性があります。
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新宿2丁目にある「太宗寺」を訪れ、お寺とゲイタウンが隣り合わせに接していることを見てきました。
今回は、新宿2丁目のゲイタウンを歩いた後、「成覚寺」、「正授院」を訪れ、「聖」と「俗」は切り離されたものではなく、相互に関係があったことを見ていきます。
(※)花街関連に関する記事については、「古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など」のカテゴリがありますので、ご関心のある方はこちらをご覧ください。
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(新宿2丁目のゲイタウンを歩く)
「太宗寺」を出て、前回の記事で「内藤家墓所」から見えた男性専用サウナの「24会館」のほうに歩いていきます(下の写真)。
街の様子は下の写真のような感じで、他所の飲食店街とさほど変わりませんが、
新宿2丁目の特色が出ている看板が目につきます。
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『「お寺」と「ゲイタウン」~新宿2丁目散策(1):太宗寺』の「太宗寺の奪衣婆像」の箇所で、
「遊女の多かった内藤新宿」と書きましたが、
江戸時代には江戸四宿(千住宿、板橋宿、内藤新宿、品川宿)という非公認の遊郭で遊女が置かれている宿場町が4つあり、そのうちの一つが、現在の新宿2丁目界隈の「内藤新宿」でした(下の写真は、「新宿歴史博物館」に展示されている内藤新宿のジオラマ)。
(出典:新宿歴史博物館。写真撮影は許可されています)
明治時代には牧場ができ、のどかな時期もあったようですが、戦後は、特に新宿2丁目界隈は赤線地帯となっていきます。
江戸時代には非公認の遊郭があった場所、戦後は赤線地帯であった場所が、現在の新宿2丁目のゲイタウンに継承されているわけで、歴史の継続性がここでも見られます。
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(成覚寺:遊郭の悲惨な歴史)
新宿2丁目の仲通りから靖国通りに出ると「成覚寺」(じょうかくじ)があります。
内藤新宿の遊女たちの投げ込み寺として知られています。
境内には「子供合埋碑」(こどもごうまいひ)という碑がありますが(下の写真)、
「子供」というのは、いわゆる子供ではなく、遊郭に売り渡された子という意味で「遊女」を指します。
投げ込まれた遊女の数は「2200とも3000余りとも伝わる」(Wikipedia)とのことで、死んだ遊女は身につけていたものを剥ぎ取られて俵に詰められ投げ込むように捨てられたそうです。
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また、境内には「旭地蔵」があり、台座には男女の戒名が記されています。
説明板には、「これらの人々は、宿場内で不慮の死を遂げた人たちで、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であろうと思われる」と書かれていました。
(正授院)
「成覚寺」の隣には、「正授院」(しょうじゅいん)があります。
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ここにも「奪衣婆像」が収められていますが、中は暗くて撮影できませんでした。
ここの「奪衣婆」は「綿のおばば」と呼ばれ、火事の時に髪に燃え移った火を自分でもみ消したという噂が広まり、幕末に参詣客が押し寄せる騒ぎになったことがあるそうです。
また、太平洋戦争時に金属供出され失われていましたが、戦後アメリカで発見され「正授院」に返還されるという数奇な来歴を持つ「平和の鐘」があります。
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前回の『「お寺」と「ゲイタウン」~新宿2丁目散策(1):太宗寺』と今回の記事で、新宿2丁目のゲイタウンにある3つのお寺を訪れました。
「太宗寺」の奪衣婆が内藤新宿の妓楼(ぎろう)の商売神として信仰されたこと、「成覚寺」が遊女の投げ込み寺であったこと、心中などで不慮の死を遂げた人たちの地蔵が祀られていることを考えると、
「聖」と「俗」は切り離されたものではなく、相互に関連していることがよく分かりますし、
江戸時代からの歴史を考えれば、お寺とゲイタウンが隣り合わせにあることも歴史の継続性という意味で興味深いものがあります。
(※)花街関連に関する記事については、「古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など」のカテゴリがありますので、ご関心のある方はこちらをご覧ください。
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今回で、『「お寺」と「ゲイタウン」~新宿2丁目散策』シリーズを終了します。
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