【日本橋】橋梁としての日本橋探索(2):麒麟像・獅子像/焼夷弾の跡/日本橋魚河岸
- 2020/12/17
- 07:19
前回の「【日本橋】橋梁としての日本橋探索(1):元標の広場/道路元標」では、道路の真ん中に置かれた道路元標や首都高速道路にある道路元標を見てきました。
今回は、麒麟贈・獅子像、焼夷弾の跡、日本橋魚河岸について見ていきます。
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(麒麟像・獅子像:阿吽)
日本橋には、麒麟像(下の写真左)、獅子像(下の写真右)が置かれています。
神社に置かれている一対の狛犬は、一方が口を開け、もう一方が口を閉じていますが、
これは「阿吽(あうん)」を示し、口を開いている狛犬を「阿形(あぎょう)」、口を閉じている狛犬を「吽形(んぎょう、又はうんぎょう)」と言い、
「阿」が物事の始まり、「吽」が物事の終わりで、宇宙の始まりと終わりを表すと言われています。
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日本橋の麒麟像、獅子像も「阿形像」と「吽形像」の2体を一対として設置されています。
下の写真は、獅子像の「阿形像」と「吽形像」、
下の写真は麒麟像の「阿形像」と「吽形像」です。
また、獅子像が抱えている歯車(あるいはヒトデ)のようなものは東京都の紋章です。
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(焼夷弾の跡)
日本橋の欄干や舗石ブロックを見ると、下の写真のような茶色く焦げた跡が、ところどころに見られます。
これらは、大戦中の米軍の焼夷弾によってできた焦げ跡です。東京散歩をしていると大戦中の米軍による空襲跡を今でも見ることがありますが、これらもそのような空襲の痕跡です。
また、傳田修司(東京国道事務所 調査係長)の論文によれば、歩道の舗石ブロックに焼夷弾が落ちた跡があると書かれていたので探したところ、それと思われる跡を見つけました。
昭和20年(1945年)3月20日の米軍による東京大空襲では、一般市民の死者数は10万人以上、罹災者は100万人を超えました。これは広島・長崎の原爆に匹敵する規模の犠牲者でした。
このような悲惨な出来事があったことは忘れてはならないし、その痕跡は残しておくべきだと思います。
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(日本橋たもとの4隅)
日本橋のたもとの4隅には、「滝の広場」・「花の広場」・「乙女広場」・「元標の広場」の4つの広場があり、
それぞれの広場には、個性的な史跡や施設があります(下の写真は日本橋地下鉄コンコース内にある地図に筆者が加工したもの)。
北詰の西側には「元標の広場」があり、「道路元標の碑」が置かれていることは、「【日本橋】橋梁としての日本橋探索(1):元標の広場/道路元標」で見てきましたので、その他の3つの広場を見ていきたいと思います。
まず、北詰の東側です。
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(日本橋魚河岸)
北詰の東側には「乙女広場」があり、
「日本橋魚市場発祥の地」碑が建っています(なぜ乙姫の像があるのかよく分かりませんが、海に関係した乙姫なのでしょうか)。
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この「日本橋魚河岸」は江戸時代からあり大きく発展しましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅しました。
下の写真は、「乙女広場」に置かれている説明版にあった関東大震災前の魚河岸の様子を拡大したものです。
日本橋には鰹節を扱う老舗専門店が多いのは(下の写真)、「日本橋魚河岸」があったことに由来します。
この日本橋の魚河岸が関東大震災により壊滅した後は、当時海軍省が所有していた築地に東京市設魚市場を開設しました。築地市場の始まりです。
現在は、築地から豊洲に魚市場(卸売市場)が移転しましたが、このように東京(江戸)の魚市場は、日本橋→築地→豊洲と移転を続けたわけです。
(参考記事1)築地場外市場の散策記事として、『築地場外市場の「専門店巡り」と「赤酢と炙り寿司」』があります。
(参考記事2)豊洲市場開設直後に訪れた記事として、「豊洲市場(開場後)に行ってきました」があります。
(参考記事3)豊洲市場が解説する前に訪れた記事として「豊洲市場に行ってきました」があります。この記事で、魚市場の移転の歴史的な経緯についても書いています。
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次回は、「橋梁としての日本橋サブシリーズ」の最終回として、「花の広場」、「滝の広場」などを訪れます。
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