哀川翔、RIKACOの自宅を探訪しながら尾山台・等々力・野毛散策(3):哀川翔/RIKACO/河川争奪/谷沢川/逆川
- 2020/12/14
- 07:44
岩城滉一、役所広司、ビートたけしの自宅を探訪しながら、尾山台・等々力地区を散策しました。
今回は、引き続き、尾山台・等々力地区を散策しながら、哀川翔、RIKACOの自宅を探訪し、
地形上の珍しい自然現象(河川争奪)が起こった地点を見てみます。
(※)他の芸能人関係の記事については、「芸能人・著名人関連のカテゴリ」がありますので、ご関心のある方はこちらを御覧ください。
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(哀川翔の自宅)
前回の記事で訪れたビートたけしの自宅界隈には、哀川翔(本名:福地家宏(ふくち いえひろ))の自宅があります(下の写真)。
本名の「FUKUCHI」(福地)の表札がありました。
車が2台置かれた狭い間口に見えますが、
哀川翔の自宅は「逆L字型」をしていて、この玄関は「逆L字型」の先端部分でしかなく、奥に広い建物があります。
この邸宅は、日本を代表する建築家・安藤忠雄が設計した家だそうです。
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(RIKACOの自宅)
哀川翔の夫人は元女優の青地公美(あおち くみ)で、この哀川夫人がRIKACOと仲がよく隣に住むようになったそうです。
しかし、哀川翔の自宅の左右の隣家を見ましたが、RIKACOの家らしきものはありません。
周囲を探索すると、RIKACOの自宅は哀川翔の裏手にありました(下の写真)。
RIKACOの本名は吉川莉加子(よしかわ りかこ)ですが、
「WATABE・YOSHIKAWA」(渡部・吉川)の表札がありました(公道から撮影した写真)。
「WATABE」は元夫の俳優・渡部篤郎のことと思われますが、なぜ離婚した元夫の名前があるのでしょうか?
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調べたところ、RIKACOは自身のインスタグラムで次のように述べているそうです(長いので一部を抜粋・引用します)。
「一つ前の記事で私の本名の苗字を渡部さんを名乗っているんですねー以外でした!
と言う質問に良いチャンスだから少しここで語らせ頂くと
私達が離婚した時に息子さん達が苗字を変えたくない!と言う思いが凄く強かったので私は新たに渡部と言う新しい戸籍を作り私だけそこに移しました!
親の親権は私息子さん達の戸籍は父親に!離婚は子供達にはなんの関係もなく親の都合です!
出来るだけ息子さん達には負担をかけないように色々息子さん達優先の人生の選択を私はしました!(以下略)」
つまり、自分の子供のために、父親の「渡部」性を離婚した後も使用していることから、「WATABE・YOSHIKAWA」(渡部・吉川)の表札を掲げていると思われます。
(吉井和哉・眞鍋かをり夫妻の自宅)【追記】
RIKACOの自宅の隣に吉井和哉・眞鍋かをり夫妻の自宅があることを新たに確認しました。その位置関係は下の通りです。
詳しくは、『「芸能人の自宅」と「旧玉川村の痕跡」を探訪~等々力散策(2)』をご覧ください。
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(珍しい自然現象・・・「河川争奪」の現場)
ここから野毛方面(西方向)へ向かいますが、途中で等々力渓谷内を流れている「谷沢川」を渡ります(下の写真)。
以下は、やや専門的な話になりますので、ご関心のない方は読み飛ばしてください。
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この「谷沢川」は、もともとは世田谷区用賀を源流とし、自由が丘・緑が丘を経て呑川に合流していました。
しかし、南から侵食してきた谷頭(こくとう)によって、今まで東に向かっていた本来の「谷沢川」大部分の水が、南の水系(谷沢川)に奪われる珍しい自然現象・・・「河川争奪」(かせんそうだつ)が起こって流路が南に変わり多摩川に合流するようになったものです(下図参照)。
(出典:「国土地理院 治水地形分類図」を筆者が加工したもの)
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このように、ある水系の谷頭が侵食を続けて上流へ成長を続け、別の水系域に達するとそこの水系の上流部の流域を奪って取り込んでしまう現象を「河川争奪」といいます(谷沢川については人工的に流路を変えたという説もありますが、自然現象としての説が有力です)。
「河川争奪」後は、等々力付近の「元谷沢川」の一部が逆流して「新谷沢川」に流れ込むようになり「逆川(さかがわ)」と呼ばれるようになり、また、途中の「浄真寺」付近の「元谷沢川」からは「九品仏川」となり呑川に合流するようになりました(下図参照)。
(出典:「国土地理院 治水地形分類図」を筆者が加工したもの)
この河川争奪の痕跡を今でも見ることができます。下の写真は等々力渓谷に架かる「ゴルフ橋」から見た痕跡です。
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また、この痕跡の延長線上には「逆川」の碑があり、
逆川の痕跡(暗渠)を見ることができます。
「当初の谷沢川の流れ」と「河川争奪後の谷沢川の流れ」を現地写真を使って視覚化すると以下のようになります。
下の写真は、自由が丘を流れていた九品仏川の痕跡である「九品仏川緑道」。
(※)九品仏川については、『自由が丘でパンケーキ」と「自由が丘プチ散策・プチ講座」:花きゃべつ』を参照してください。
(注)上の説明は、等々力渓谷の河川争奪を単純化して説明したものですが、昭和初期の耕地整理後は、逆川上流が九品仏川に繋がれるなどもっと複雑な経緯があったようです。
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次回は、「芸能人の自宅を探訪しながら尾山台・等々力・野毛散策シリーズ」の最終回として、野毛地区まで行ってみます。
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