【日本橋】橋梁としての日本橋探索(1):元標の広場/道路元標
- 2020/11/29
- 07:38
現在、日本橋界隈のエリアを区切って、日本橋の散策シリーズ(下記(※)参照)を掲載しているところですが(前回の記事は「【日本橋】今も昔も交通の要所~日本橋蛎殻町(2)」)、
今回は、「橋梁としての日本橋」について書いてみたいと思います。
下の写真は、熈代勝覧(きだいしょうらん)に描かれた日本橋。
(上の写真は、日本橋「三越前」駅地下コンコース壁面に常設されている「熈代勝覧」を撮影したものです。「熈代勝覧」について詳しくは今回の「橋梁としての日本橋探索」シリーズの最終回の記事で詳しく言及します)
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(※)(日本橋散策について、今までに掲載してきた3つのサブシリーズ)
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
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(日本橋の揮毫)
日本橋に掲げられている「日本橋」(下の写真)の文字は最後の将軍・徳川慶喜の揮毫によるものです。
当時の東京市長・尾崎行雄が、「江戸から東京へ戦火を交えず無血開城できたのはひとえに屈辱に耐え、負けを認めて恭順姿勢を貫いた慶喜公のおかげである。いわば東京の一番の恩人にこそ揮毫願うべきである」との考えから、明治44年(1911年)徳川慶喜に揮毫を依頼したとのことです。
日本を代表する橋の揮毫が、明治政府の関係者によるものではなく、敗者の徳川慶喜によるものだったということは面白い歴史的事実です。
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なお、徳川家の揮毫としては、この他に、
日本橋本町にある「本町通り」(旧日光街道)の道標に
徳川家第18代当主の徳川恒孝(とくがわ つねなり)が揮毫しています。
『【日本橋】浅草寺の大提灯と小船町~~日本橋堀留町・小舟町界隈散策(2)』で、本町通り(旧日光街道)は江戸時代大変賑わった通りだったと書きました。
この通りは、日光街道として将軍が日光東照宮への参詣のために使った街道で、徳川家と縁が深いため揮毫されたのではないかと思われます。
(参考記事)徳川家第18代当主・徳川恒孝氏の邸宅については、「ユニクロ柳井社長の邸宅、イスラム教寺院を探訪~三田用水跡散策(2)」を参照ください。
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(日本橋:道路元標)
さて、日本橋北詰の西側にある広場は(下の写真)、
「元標の広場」と呼ばれ、
「道路元標の碑」(レプリカ)が置かれています。
この「道路元標」の文字は佐藤栄作元首相の揮毫によるもので、
本物の道路元標は日本橋の中央に置かれています。
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(本物の道路元標は道路の真ん中に)
本物の道路元標が日本橋の道路のまん中に置かれていて、主要国道7路線の起点標になっています。
なお、鉄道の始点は東京駅にあり、各ホームに個性的な「0キロポスト」が設置されています。
下の写真左が1番線ホームから見える「0キロポスト」、写真右が4番線と5番線ホームの「山手線」の間にある「0キロポスト」です。
参考記事:東京駅にある「0キロポスト」については『【丸の内】「パン食べ放題ランチのカフェ」と「東京駅0キロポスト」:メゾンカイザーカフェ』を参照ください。
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(日本橋:首都高速道路の道路元標)
しかし、中央通りの真ん中に置かれている「道路元標」は、上にある首都高速道路からは見ることができないため、首都高速道路用の「別の道路元標」が設置されています(下の写真)。
しかし、よくみるとこの道路元標を横から支えている4つの支脚(用語が分かりませんので「支脚」とします)をよく見ると、2本の支脚は離れています。
つまり、2本の支脚のみで支えられており、残りの2本は単なる飾りとして置かれています。
これは、地震があったときに4本全てがつながっていると支脚が破壊されてしまうことを防ぐための措置と思われます。
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次回も「橋梁としての日本橋」についての記事で、日本橋にある麒麟像・獅子像、焼夷弾の跡、日本橋魚河岸について見ていきます。
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