「荏原」の地名に思いを馳せる:地名の栄枯盛衰~西小山→荏原町散策(3):旧荏原郡/旗岡八幡神社/法蓮寺/平塚の碑
- 2020/10/26
- 07:51
かつて存在した駅ホームの痕跡と、同じくかつて存在した「旗が丘」の地名の痕跡を探してみました。
今回も、「荏原」の地名の変遷、「源氏ゆかり」の史跡などを見ていきます。
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(地名の栄枯盛衰:荏原の地名について)
前回の記事で歩いた立会川跡に戻って、さらに進んでいきます。
途中には、「立会川児童遊園」があり、
東急大井町線「荏原町駅」の踏切脇に、「丸岡」と書かれたレトロな石蔵が見えてきました。
この「荏原町」の「荏原」ですが、
スーパーマーケットでよく見かける「えごま油」の「エゴマ(荏胡麻)」に関係があり、「荏胡麻の原」が「荏原」となりました。
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「荏原」は室町時代からあった由緒ある地名で、現在の品川区・目黒区・大田区・世田谷区の東半分、川崎市の東側を含む大きな地域でしたが、現在では、「荏原中延」、「荏原町」などというごく限られた地区にのみ存在する地名となってしまったことを書きました。
下の写真は大正10年(1921年)当時の「荏原郡」の範囲です。大変広い地域をカバーしていました。
(出典:しながわ百科)
このことが、「品川区立荏原文化センター」前の掲示板に詳しく書かれています(品川区中延1丁目9−15)。
なお、この「品川区立荏原文化センター」は、東京35区時代にあった「荏原区」の区役所があった場所です(東京35区については「田園調布界隈を歩く(2):東京35区・宝来公園・国分寺崖線」を参照してください)
旧品川区と荏原区は合併して新品川区になったのですが、実態は旧品川区が人口・経済面で弱小の荏原区を吸収合併して、「荏原区」の名前がなくなったのでした。
「荏原」の地名を調べるほどに地名の栄枯盛衰を考えさせられます。
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(源氏ゆかりの地)
旗の台駅から荏原町駅にかけて商店街が続きます。
この商店街のある通りは「三間通り」(さんげんどおり)といいますが、その名の通り幅が3間(1間≒1.8メートル)で、昔からある古道であることが名前からも分かります。
また、荏原町商店街を歩いていると、トルコ料理店やトルコ雑貨店が多いことに気づきます。
私はケバブが好きなので、ケバブを売っているトルコ料理店でケバブを買いました。
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さて、「荏原町駅」のすぐ近くには、「旗岡八幡神社」(写真左)と「法蓮寺」(写真右)が並んでいて、神社とお寺が隣り合わせに建っています。
「旗岡八幡神社」は源頼信が平忠常の乱を平定しに行く際この丘に陣を張り、源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したのがその発祥とされています。
このため、この地が「旗岡」「旗の台」と呼ばれるようになりました。
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この地区には「源氏前小学校」、「源氏前公園」など「源氏」の名を冠した施設がありますが、これらもこの界隈が源氏ゆかりの地であることを示しています。
また、「旗岡八幡神社」の隣にある「法蓮寺」は徳川家斉と住職が相撲をとったという伝承があるお寺で、
このため、お寺の屋根には徳川家の葵の御紋を見ることができます。
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源氏ゆかりの史跡としては、ここから少し離れたところに重要な史跡があります。
中原街道から少し入った場所にある「平塚の碑」です(品川区荏原4-6-4)。
品川区教育委員会の説明書きには、次のように書かれています。
「後三年の役において八幡太郎源義家をたすけた弟の新羅三郎源義光は奥州からの帰途、この地において夜盗に襲われ多数の配下を失った。その霊を祀ったのが、この塚の由来とされる」
また、この周辺の土地を「平塚」と呼ぶようになった由縁とも言われています(この近くには『「品川用水跡」と「帝銀事件」~武蔵小山散策(3)』で書いた「平塚橋」があります)。
この「平塚の碑」は分かりにくい場所にあるのですが、バーミアンの脇の道を少し入ったところにあります。
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次回は、「西小山→荏原散策シリーズ」の最終回として、失われた地名である「蛇窪」地区まで歩いていきます。
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