【日本橋】今も昔も交通の要所~日本橋蛎殻町(2):旧日本橋区役所/遠忠商会/牡蠣町殻銀座跡/谷崎潤一郎生誕の地
- 2020/10/15
- 06:55
※本ブログの記事内容は、新型コロナウィルスが蔓延する以前に訪れたときの様子を書いたものです。なお、新型コロナウィルスに関する私の考えは「新型コロナウィルスで思うこと」で書いています。
☆☆☆
水天宮から東京シティエアターミナルまで散策しました。
今回は、東京シティエアターミナルから蛎殻町1丁目に入っていきますが、
前回の記事で掲載した地図を再掲します(緑色の部分が今回散策している地域)。
★★★
★★★
(旧日本橋区役所)(遠忠商会)
現在の中央区は、昭和22年(1947年)に旧日本橋区と旧京橋区が合併してできたのですが、
この「日本橋区民センター・区役所日本橋特別出張所」は旧日本橋区の区役所だったところで、現在も中央区の業務の一部を取り扱っています。
東京35区が再編成され、現在の東京23区になった詳しい経緯については「田園調布界隈を歩く(2):東京35区・宝来公園・国分寺崖線」を参照ください。
また、この日本橋区民センターの前にある「遠忠商会」は「メイドイン東京の会」の会長が経営している店で、
東京産の産品を多く取り揃えています。
★★★
★★★
「【日本橋】水天宮と東京シティエアターミナル~日本橋蛎殻町(1)」で江戸時代に箱崎川があったことは既に書きましたが、このあたりは堀(川)が多く、水上交通の要所でした。
蛎殻町1丁目には、「とうかん堀通り」(稲荷堀通り)という江戸時代に堀があったことを示す通りがあります。
この「とうかん堀通り」と「旧箱崎川」(現・首都高速道路)の合流点に「行徳河岸」という船の発着場所がありました。
この説明板が、この近くに置かれています。
その説明によれば「南葛飾郡本行徳村(現・千葉県市川市)の村民がここで江戸と行徳の間で、小荷物や旅客の輸送を開始した」ことが書かれています。
下の写真は、その説明板にある地図を拡大したものです。
★★★
★★★
また、下の写真は、「【日本橋】水天宮と東京シティエアターミナル~日本橋蛎殻町(1)」で書いた「箱崎川第二公園」そばにある、首都高速道路「箱崎ジャンクション」の入り口です(下の写真)。
現在の行徳河岸と箱崎川の様子は、水上物流が主体であった江戸時代の様子とは全く変わってしまいましたが、水上と道路の違いはあれ、当時も今も交通の要所であることは興味深い歴史の一面です。
☆☆☆
この界隈は水上交通の要所であったため、酒問屋や醤油問屋が多くありました。このため、この界隈には醤油に関連する施設が多くあります。下の写真は醤油会館。
また、「東京米穀商品取引所」もこの地にありました。その跡地に説明板があります(下の写真。日本橋蛎殻町1-12-4)。
★★★
★★★
この近くには、創業万治2年(1659年)のもぐさ専門の老舗「釜屋もぐさ」があります。1659年ですから江戸時代初期の創業になります。
このように、日本橋界隈を歩いていると、思いがけない場所で思いがけない老舗店を見つけることがよくあります。
また、この界隈はマンションやオフィスのある住宅街・オフィス街ですが、美味しいレストランがあり、以下のレストランを紹介したことがあります。
★★★
★★★
(銀座の本家:蛎殻町銀座)
関東大震災後に作られた新大橋通りを渡ると、「蛎殻町銀座」の説明板があります。
「江戸時代、現在の銀座に銀を取り扱う「銀座役所」があったが、不正があたため、現在の蛎殻町に銀座役所が引っ越してきた」と書かれています。
つまり、こちらの蛎殻町銀座の方が歴史的には由緒ある「銀座」であることになります。
参考記事:銀座にある「銀座発祥の地」碑については、下の記事を御覧ください。
★★★
★★★
(鯨のオブジェ)
「蛎殻町銀座跡」の説明板の通りを隔てたところに、下の写真のような鯨のオブジェがあります。
そこにある説明板には、
江戸時代にこの地には人形浄瑠璃の小屋が多くあり、それが人形町の地名の由来となったこと、その人形浄瑠璃の人形の絶妙な動きは弾力に富んだ鯨ヒゲでないとだせなかったことが書かれています。
「【日本橋】堀留の由来は?~日本橋堀留町・小舟町界隈散策(1)」で書いたように人形浄瑠璃などの芝居小屋があったのは、ここから少し離れた日本橋堀留町なのですが、こちらの通りのほうが人通りが多いため、この鯨と説明板を置いたのかもしれません。
★★★
★★★
(谷崎潤一郎生誕の地)
この通りには小説家・谷崎潤一郎生誕の地の説明板もあります。
☆☆☆
また、この近くにあるレストランとして、以下の記事を書いたことがあります。
『人形町で蟹ラーメンとパンケーキ:crab台風/ なごみナチュルア(nagomi-NATULURE)』
☆☆☆
今回で日本橋蛎殻町界隈の散策を終了し、次回は「橋梁としての日本橋」について考察してみたいと思います。
★★★
★★★
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙

