「品川用水跡」と「帝銀事件」~武蔵小山散策(3):みずほ銀行荏原支店/平塚橋交番/お猿橋庚申堂
- 2020/08/17
- 05:58
※本ブログの記事内容は、新型コロナウィルスが蔓延する以前に訪れたときの様子を書いたものです。新型コロナウィルス感染が収束するまでは、原則として今まで撮った写真等のストックを使った記事を掲載します(その後撮影した写真も一部含む)。なお、新型コロナウィルスに関する私の考えは「新型コロナウィルスで思うこと」で書いています。
☆☆☆
東京周辺にある3つの「ムサコ」について考察し、古道の交差点などを散策しました。
今回は、この地に流れていた「品川用水」の痕跡と「帝銀事件」関連の施設を見てみます。
★★★
★★★
(品川用水跡)
品川用水は、寛文9年(1669年)に開削された用水路で、
玉川上水から武蔵野市境で取水され、三鷹市・世田谷区・目黒区を経由して品川区に流れていました(下の地図の赤い実線部分)。
(出典:『東京「暗渠」散歩』洋泉舎 本田創著 211ページ)
現在では、ほぼ全ての流路が暗渠化または埋め立てられて、その痕跡はほとんど失われていますが、武蔵小山にはその痕跡がわずかながら残されています。
「武蔵小山商店街パルム」を中原街道に向かっていくと「平塚橋交差点」に出ます。
川の痕跡すらないこの場所がなぜ「平塚橋」という「橋」なのか以前は不思議に思っていたのですが、
この場所はかつて品川用水が流れていて、そこに橋があったからなのでした。
★★★
★★★
この平塚橋交差点の歩道橋脇に「平塚橋の碑」と案内板があります。
ここには下の写真のような不自然な三角形の土地がありますが、これはかつて品川用水が流れていた痕跡です(下の写真は平塚橋交差点にある地図に筆者が加工したもの)。
その場所を歩道橋から撮影したものです(下の写真)。
このような「不自然な三角形」の土地は歴史的に意味のある土地であることがしばしばあります(「古道について(2):古道の特徴」を参照)
下の写真は、「戸越銀座散策(1):安倍総理の訪問/銀座の赤レンガ」で言及した「戸越地蔵」にあった明治初期のこの付近の写生絵です(見やすくするため品川用水の部分を筆者が水色に着色しました)。
当時はこのようなのどかな風景だったのでしょう。
★★★
★★★
武蔵小山駅の北側には「お猿橋庚申堂」という小さな祠がありますが、これは品川用水に掛かっていた「お猿橋」の名残です(品川区小山台1丁目21−17)。
小さな祠ですが、きれいな花などが供えられており、地元の人達から愛されている庚申堂であることが分かります。
また、「朝日地蔵」のあった交差点(四つ辻)の近くの品川用水流路跡前には、天然温泉が人気の「武蔵小山温泉清水湯」があります。
水を使う「風呂屋」は川や用水路の近くに建てられることが多く、暗渠のサインなのですが、この大正13年(1924年)創業の「武蔵小山温泉清水湯」も品川用水があったことの名残と考えられます。
★★★
★★★
(栄通りの面白い建築物)
「武蔵小山商店街パルム」近くにある栄通りには、面白い建築物があるので歩いてみます。
壁から巨大な筆を持つ手が出ているビルです。
看板制作会社のビルだそうですが、筆先のしずくが大変リアルです。
また、玄関の郵便受けがポストの家、
庭先にまつっている可愛らしい祠など
面白い家が建っています。
★★★
★★★
(帝銀事件関連の銀行と交番)
帝銀事件とは、昭和23年(1948年)に豊島区長崎の帝国銀行で起きた毒殺殺人事件で、逮捕された死刑囚の冤罪の可能性があるなど未だに多くの謎が残されている事件です。
松本清張がGHQの謀略による冤罪事件として「小説帝銀事件」を書き、
(出典:「小説帝銀事件」角川文庫 松本清張著)
この「小説帝銀事件」を発展させて、「日本の黒い霧」を執筆したことでも知られている事件です。
「日本の黒い霧(下)」の「帝銀事件の謎」(67ページ~124ペジ)でこの事件について書いています。
(出典:「日本の黒い霧(下)」文春文庫 松本清張著)
この帝銀事件は豊島区長崎で起きましたが、未遂の類似事件として武蔵小山でも起きています。
★★★
★★★
帝銀事件が起きた前年の昭和22年(1947年)10月14日に、当時の安田銀行(現・みずほ銀行)荏原支店に、「厚生技官」と称する男性が訪れ、「銀行内の行員と金を消毒しなければならない」と告げましたが、
支店長がその男性を待たせて、交番へ巡査を呼びにやったところ、帝銀事件と全く同じ手口で行員に薬を飲ませたが、死者はでなかった、という類似事件です。
この「安田銀行(現みずほ銀行)荏原支店」と「交番」が、平塚橋交差点に当時と同じ場所に、(建物は新しくなりましたが)今でも建っています(下の写真)。
この「安田銀行(現みずほ銀行)荏原支店」について、松本清張は「焼跡の多い辺鄙な少銀行を選んだ」と書いていますが(「日本の黒い霧(下)」107ページ)、
当時、このあたりは焼け跡が残り辺鄙な場所であったことが読み取れます。
【追記 令和2年(2020年)12月22日】
下の写真は、帝銀事件の起きた場所で(旧帝国銀行椎名町支店跡)、現在はマンションになっています。
☆☆☆
次回は、「武蔵小山散策」の最終回として、目黒区側界隈を散策してみます。
★★★
★★★
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙

