【日本橋】花街・元吉原の名残(2)~日本橋人形町・富沢町散策:芸者新道/末廣神社
- 2020/06/22
- 07:25
※本ブログの記事内容は、新型コロナウィルスが蔓延する以前に訪れたときの様子を書いたものです。新型コロナウィルス感染が収束するまでは、原則として今まで撮った写真等のストックを使った記事を掲載します(その後撮影した写真も一部含む)。なお、新型コロナウィルスに関する私の考えは「新型コロナウィルスで思うこと」で書いています。
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江戸以来の古い花柳界である芳町(よしちょう)花街の面影を見てきました。
今回も引き続き、芳町花街と元吉原の痕跡を探る散策をしてみます。
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(芸者新道、末廣神社:花柳界の面影)
人形町通りを渡った日本橋人形町1丁目には「芸者新道」と呼ばれる裏道があり(下の写真)、歩いていると江戸・明治時代にタイムスリップしたような気分になります(『「人形町の食べ放題イタリアン」と「西郷隆盛屋敷跡~芸者新道~プチ人形町散策」』を参照)。
また、人形町2丁目には、「元吉原」の氏神とされる「末廣神社」がありますが(中央区日本橋人形町2丁目25−20)、
この神社の玉垣には「葭町芸妓芸妓屋組合」の文字が彫られています。
これらの風景から芳町花柳界の面影を垣間見ることができます。
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(もう一つの裏路地)
江戸・明治時代にタイムスリップしたような気分になる「芸者新道」のことを書きましたが、人形町にはもう一つ面白い裏路地があります。
人形町通りに面したケンタッキーフライドチキン脇の道で(下の写真)、多くの飲食店などがあり歩いていて楽しい裏路地です。
(参考記事)私は裏路地が好きなのですが、銀座を「裏路地と神社」の切り口から散策した「銀座散策~神社・裏路地巡りシリーズ」(10回にわたり掲載)があります。銀座は意外と裏路地の多い街で、裏路地を歩くと銀座の別の顔が見えてきます。
(元吉原の痕跡)
この人形町界隈には、明暦の大火(1657年)後、浅草に移転するまでの約40年間という短い期間でしたが、江戸幕府公認の遊郭がありました。
江戸初期に、葭(よし)が茂るこの辺り一帯の低湿地帯を埋め立て「元吉原」を造成しました。
「葭」(よし)が茂っていたため「葭原(よしはら)」と呼ばれていましたが、
「葭」(ヨシ)は葦「アシ」と同じ植物で、「悪し」に通じ縁起が悪いとのことで、「葭」の別の呼称「ヨシ」を「吉」に代えて「吉原」と呼ぶようになりました。
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Wikipediaによれば、吉原が浅草に移転後、跡地には「難波町、住吉町、高砂町、新和泉町」ができたと書かれていますので、それを古地図と照合して当てはめると、
その区画(元吉原の区画)は日本橋2、3丁目と富沢町にまたがる範囲で、おおおよその範囲は以下のとおりとなります(下の地図は人形町駅前の地図に筆者が加工したもの)。
(上の地図は下が「北」)
なお、「難波町、住吉町、高砂町、新和泉町」の町名は住居表示の変更でなくなりましたが、難波町の系譜を引く「浪速町」(これも住居表示の変更で喪失)は「人形町二丁目浪速会」としてその痕跡を留めています。
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浅草の吉原には、区画や道、水路跡、交差点の名などその名残が現在でも多く残っていますが、
人形町の「元吉原」は、350年以上前にあった遊郭であり、しかも40年間ほどしか存在していなかったため(元和3年(1617年)から明暦3年(1657年)まで存続)、その痕跡はほとんど残っていません。
それでも、わずかながらもその痕跡がありますので、次回ではそれらを探索してみます。
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