柴又を歩く(3):山本亭・江戸川土手
- 2018/05/15
- 21:36
柴又を歩く(2):柴又帝釈天の続きです。引き続き、江戸川土手の方に歩いていきながら、あまり知られていない柴又を見ていきます。
☆☆☆
☆☆☆
(山本亭:桂離宮に次ぐ日本庭園)
山本亭は、山本栄之助という資産家の私邸を葛飾区が買い取り一般公開しているものです。山本氏の私邸になる前は、瓦工場だったそうです。柴又が瓦の一大生産地であったことは、柴又を歩く(1):柴又駅・寅さん像でお話しました。
和洋折衷の建物と純和風の庭園が見事です。
入場料は100円ですが、たった100円でこれだけの建築物と庭園を堪能できるのは素晴らしいことだと思います。
特に、日本庭園は米国の日本庭園専門誌で、足立美術館・桂離宮に次いで第3位にランキングされています。

小じんまりとした和風庭園ですが、和洋折衷の建物と和風庭園のコントラストが評価されたようです。アメリカ人は派手好みかと思っていましたが、このような日本の美を評価したのですね。
客間にある床の間を背にした庭が一番美しいそうです。下の写真は、その床の間を背にして撮った写真です。

もう一つ驚いたのは、この山本亭にある防空壕で、その防空壕の中にはシャワー室まであったそうです。

(柴又と古代)
山本亭を出ると柴又公園があり、そこを登ると江戸川土手に出ます。下の写真が江戸川土手で撮った写真ですが、対岸は千葉県で、一番後ろの緑のこんもりしたところは、国府台(こうのだい)です。

国府台は下総国の国府があったところで、中世には国府台城もありました。このような古代から中世にかけての要所のそばにある事自体、柴又の歴史の古さを感じさせます。
下町というと「江戸時代以前は海だったので、江戸以前の歴史はない」と思われがちですが、この柴又のような微高地には人が住み平城京・平安京との往来もある場所があったことを見落としてはならないと思います。
(「柴叉駅」の謎を解く)
さて、柴又を歩く(1)でお約束した、「柴叉駅」の「叉」の謎に挑戦してみましょう。
「柴叉駅」の広場にある火消しの纏(まとい)のモニュメントについては、柴又を歩く(1):柴又駅・寅さん像でお話ししました。このモニュメントに、柴又の由来について以下の解説があります。
正倉院が出てくるとはその古さに驚きましたが、古代には、「嶋俣(しままた)」という地名だったようです。
「俣」「叉」には「一つの元から二つに分かれる場所」という意味がありますので、この「俣」から「叉」となったのではないかと推測します。(←「柴叉駅」と命名した人に聞けば良いのでしょうが、柴又の鉄道は「人車鉄道」の時代まで遡るようですので容易ではなさそうな気がします)
いずれにしても、古代、(柴又付近が海であった頃)柴又は河川が運んだ土砂が堆積した土地で、2つの河川が合流してできた砂州のような土地だったのではないかと考えられます。
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙
☆☆☆
☆☆☆
(山本亭:桂離宮に次ぐ日本庭園)
山本亭は、山本栄之助という資産家の私邸を葛飾区が買い取り一般公開しているものです。山本氏の私邸になる前は、瓦工場だったそうです。柴又が瓦の一大生産地であったことは、柴又を歩く(1):柴又駅・寅さん像でお話しました。
和洋折衷の建物と純和風の庭園が見事です。
入場料は100円ですが、たった100円でこれだけの建築物と庭園を堪能できるのは素晴らしいことだと思います。
特に、日本庭園は米国の日本庭園専門誌で、足立美術館・桂離宮に次いで第3位にランキングされています。

小じんまりとした和風庭園ですが、和洋折衷の建物と和風庭園のコントラストが評価されたようです。アメリカ人は派手好みかと思っていましたが、このような日本の美を評価したのですね。
客間にある床の間を背にした庭が一番美しいそうです。下の写真は、その床の間を背にして撮った写真です。

もう一つ驚いたのは、この山本亭にある防空壕で、その防空壕の中にはシャワー室まであったそうです。

(柴又と古代)
山本亭を出ると柴又公園があり、そこを登ると江戸川土手に出ます。下の写真が江戸川土手で撮った写真ですが、対岸は千葉県で、一番後ろの緑のこんもりしたところは、国府台(こうのだい)です。

国府台は下総国の国府があったところで、中世には国府台城もありました。このような古代から中世にかけての要所のそばにある事自体、柴又の歴史の古さを感じさせます。
下町というと「江戸時代以前は海だったので、江戸以前の歴史はない」と思われがちですが、この柴又のような微高地には人が住み平城京・平安京との往来もある場所があったことを見落としてはならないと思います。
(「柴叉駅」の謎を解く)
さて、柴又を歩く(1)でお約束した、「柴叉駅」の「叉」の謎に挑戦してみましょう。
「柴叉駅」の広場にある火消しの纏(まとい)のモニュメントについては、柴又を歩く(1):柴又駅・寅さん像でお話ししました。このモニュメントに、柴又の由来について以下の解説があります。
「柴又という地名は極めて古い。奈良の正倉院文書「養老5年(721)下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」の中に、嶋俣(しままた)とあり、42戸の家と370人の住民がいたことが既に記されている。
現在の柴又という文字が文献にあらわれるのは、江戸時代の正徳元年(1644)「正保●定國図」(●は弓へんに文)が始めてである。」
(柴又駅前の説明板より)
正倉院が出てくるとはその古さに驚きましたが、古代には、「嶋俣(しままた)」という地名だったようです。
「俣」「叉」には「一つの元から二つに分かれる場所」という意味がありますので、この「俣」から「叉」となったのではないかと推測します。(←「柴叉駅」と命名した人に聞けば良いのでしょうが、柴又の鉄道は「人車鉄道」の時代まで遡るようですので容易ではなさそうな気がします)
いずれにしても、古代、(柴又付近が海であった頃)柴又は河川が運んだ土砂が堆積した土地で、2つの河川が合流してできた砂州のような土地だったのではないかと考えられます。
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙

