島倉千代子の墓所~ゼームス坂散策(3):東海寺/近代硝子工業発祥之地
- 2020/02/15
- 06:55
前々回の記事では、大井町にあるゼームス坂で「高村智恵子終焉の地」を訪れ、
その後、「日本ペイント 明治記念館」や「旧大井町変電所」の重量感のある赤煉瓦の建物を見てきました。
今回と次回の記事で、ゼームス坂散策の延長として島倉千代子が眠る東海寺大山墓所まで行ってみます。
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(東海寺)
前回の「大井町の赤煉瓦遺構を探訪~ゼームス坂散策(2)」の最後に訪れた日本ペイントの「明治記念館」のある道(碑文谷道)を進むとJRのガードがありますので、
そこを右に曲がり、JRの線路伝いに北に向かいます(下の写真)。
すると下の写真のような行き止まりに行き着きます。
東海寺大山墓所には左に行って、「三嶽橋」(みたけばし)を渡ったほうが近いのですが、
私達は右に行って、「要津橋」(ようじんばし)を渡ります。
(「大井町の赤煉瓦遺構を探訪~ゼームス坂散策(2)」で訪れた「清光院」前の道を進むと、この「要津橋」に来るのですが、私達は日本ペイントの「明治記念館」に行くために回り道をしました)
「要津橋」の架かる目黒川を渡ると、右手に「東海寺」があります。
「東海寺」は今では小さな境内しかありませんが、
徳川家光が禅僧の「沢庵 宗彭(たくあんそうほう)」(たくあん漬けの考案者)のために建立した当時は、47,666坪(約157,000㎡)という広大な敷地をもつ寺院でした。
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下の写真は、品川歴史館にある東海寺(江戸時代当時)のジオラマですが、現在の品川神社から目黒川までの広大な敷地を領有していました。
このジオラマにはさきほど渡った「要津橋」が置かれていて、「要津橋」が当時からあることが分かります。
しかし、徳川幕府から手厚い保護を受けていたため、明治新政府からは目の敵にされ、多くの敷地を没収され、現在のような小さな敷地しかない寺院になってしまいました。
この東海寺の門の脇に、島倉千代子が眠る大山墓地までの地図が掲示されています。
実は、この大山墓地には、さきほどの沢庵和尚、賀茂真淵、渋川春海など著名人の墓があるのですが、
島倉千代子だけを特定して地図が掲示されていることは、現在でも多くの人たちが島倉千代子の墓にお参りに行っていることを示すものと思われます。
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(「近代硝子工業発祥之地」碑)
私達もこの地図に沿って、大山墓地まで行ってみます。
途中に「品川区子供の森公園」がありますが、
この公園には、下の写真のような恐竜が多く置かれています。
私達が歩いているこの公園も江戸時代には東海寺の所領でした。飛び地のような形で大山墓地が残されています。
この「品川区子供の森公園」の先にある歩道橋を渡り、
カーブのある道に沿って歩いていくと、「近代硝子工業発症之地」碑があります。
この説明板には、明治6年(1873年)に東海寺境内に興行社が創設されたことなどが書かれています。
ここからも、徳川幕府の土地を使って工業を興そうとした明治新政府の意図が伝わってきます。
碑の脇には硝子原材料となる珪石が置かれていました。
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次回は、「ゼームス坂散策」の最終回として、島倉千代子の墓所まで行ってみます。
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