シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)の具体例(1):ユング/河合隼雄
- 2020/01/31
- 07:51
シンクロニシティの一般論についての記事を書きました。
今回は、シンクロニシティの具体例について書いてみたいと思います。
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(シンクロニシティは慎重に扱わなければならない)
前回の記事でも書きましたが、シンクロニシティの考えは、ややもすると安易に使われ、オカルト的な「アブナイ」発想に結びつきやすいので、慎重に扱う事が大事です。
シンクロニシティの提唱者である、深層心理学者のユング(スイス人)は、
「(シンクロニシティの考えを)発表しようとしながら、『長年にわたってそれを果たすだけの勇気を持たなかった』」と述べていました(「宗教と科学の接点」(岩波書店)河合隼雄著 38ページ)。
ユング心理学を日本に導入した心理学者(元文化庁長官)の河合隼雄も、
「日本に帰ってからも(筆者注:スイスのユング研究所への留学後も)長い間黙っていました」と書いています(「未来への記憶(下)」(岩波新書)河合隼雄著 63ページ)。
また、同じく河合隼雄は、自身が経験したシンクロニシティの具体例を挙げて、
「ぼくらはこのような傑作な話はいっぱいあるんですけれども、あんまり言うとみんな喜びすぎますからね」(前述書 103ページ)と述べ、
安易にシンクロニシティについて書いたり言ったりすることを戒めています。
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(シンクロニシティの具体例)
このように、シンクロニシティについては慎重に扱うことが重要であることを念頭に置きつつ、具体例を書いていきたいと思います。
私自身も、人生の節目において「これはシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)だ!!」と実感した経験がいくつかありますが、
これらは私のプライバシーに関わることなので書くことは控え、
河合隼雄がその著作において公表している事例を書いてみたいと思います。
なお、特殊な人を除いて、(私を含め)普通の人にとって真のシンクロニシティを実感できるのは、一生の間でもそれほど多くはないと思います。
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(河合隼雄の事例①:フォン・フランツとカラスの夢)
河合隼雄が複数の著作で紹介している事例に「フォン・フランツとカラスの夢」があります(「未来への記憶(下)」(岩波新書)河合隼雄著 101~102ページなど)。
ユング研究所で、フォン・フランツによる口頭試問を受けたときの記述です。
「ある夢を見たのです。カラスが自分の肩の上にすばらしい宝石箱を背負って出てくる夢なんですよ。(略)それでユング研究所に行って、カラスについてものすごく調べたんです。(略)ところが、なんと、フォン・フランツの試験を受けたらカラスが話の中心やった。(略)それで最高点をとった」
私にはこのような体験はありませんが、こうした夢を見る人はいるようです。
また、フォン・フランツ(マリー=ルイズ・フォン・フランツ)はユング派の女性学者です。
下の写真はフォン・フランツが書いたシンクロニシティに関する本ですが、シンクロニシティに関心のあるユング派の学者だったと思われます。
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下の写真は、スイスのチューリッヒにあるユング研究所。
(出典:ユング研究所ホームページ)
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(河合隼雄の事例②:「フォン・フランツとカラスの夢」の続き)
上の事例に続いて、河合隼雄は次のように書いています(前述書 102~103ページなど)。
「(フォン・フランツは)シンクロニシティの話が好きなんですよ。(略)だけど、ぼくはそれがいやなんです。ところが、この場合にはものすごいシンクロニシティになっているわけなんですね。(略)あまりおもしろいからやはり(フォン・フランツに)言おうかなと思うていたんです」
河合隼雄は京都大学で数学を専攻した人で、物事を論理的に考える傾向が強いため、ユング心理学を学んだ当初はものすごい心理的抵抗があったそうです。
また、京都出身の人なので、柔らかい京都弁を話す方でした。
さて、河合隼雄は続いて次のように述べています。
「他の試験のときにフォン・フランツが試験官として来ました。だからそのときにぼくは『いや、あれはおもしろかったですよ』とカラスの夢のことを話そうと思って図書館で待っていたんです」
「待っているあいだにひまやから、その図書館にある本をパッと開けると、それは中国の絵で、八咫烏(やたがらす)、太陽の中にいる三本足の鳥、・・・(略)・・・(その)絵が描いてあったのです。そして、『It is true,but pity you have said it.(それはほんとうだけど。言ったのは残念だ)』と書いてあったんです。(略)だからフォン・フランツに言うのをやめたんです」
「これこそほんとにシンクロニシティ。しかも、本をパッと開けたらその絵がピタッと出てきたんですよ。しかもカラスでしょ。あれは感激しました」
私にも、大きな心理的緊張状態にあった人生の節目において、偶然開いた本のページに、まさに私が求めていた情報を見つけた経験が何回かあります。
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下の写真は、熊野本宮大社にある八咫烏(やたがらす)。
(出典:Wikipedia)
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(河合隼雄の事例③:最終試験での対立)
次の事例は厳密に言えばシンクロニシティの例ではありませんが、人生の絶妙なアレンジメントについて述べている興味深い事例です(「未来への記憶(下)」(岩波新書)河合隼雄著 160~169ページ)。
河合隼雄がユング研究所での最終試験に臨んだときのことです。
河合隼雄がスイスにあるユング研究所に留学した時期は、昭和37年(1962年)~昭和40年(1965年)の3年間ですが、
河合隼雄によれば、「ほんとうにすごい覚悟だったんです。しかも、家族連れでスイスに行くなんて、当時は大変でしょう。だからいっぱい親類が見送りにきましたよ。出征兵士を送る感じでね」(前述書 71ページ)というような、人生を賭けての大変な留学で、その最終試験での経験です。
試験官はヤコービという、ものごとを割り切って考えるような、河合隼雄が好ましく思っていない女性の学者でした。
河合隼雄は次のように書いています。
「試験のときのヤコービさんの第一声が『セルフのシンボルにはどういうものがあるか』というものなんです。それに対しては曼荼羅とか宝石とか答えればいいんです」
「ところが、(略)日本語の『森羅万象』という言葉がフッと思い浮かんだんですね。それで、(略)英語で『エブリシング』と言うたんです。そうしたら、ヤコービが『全部か。この机もそうか』と聞くんですよ。それでぼくは『この椅子もそうや』言うたんです」
「二人の考えが反対やから。結局、二人でものすごいけんかになって、(略)論戦というよりも、けんかに近いですね」
この最終試験は大事な試験で、この試験が通らないとユング派の資格がとれず、スイスへの留学が無駄になってしまうのですが、その大事な試験で試験官と大げんかになってしいました。
河合隼雄は自宅に帰ると大変落ち込んで、ヤコービに謝りの手紙を書こうと思いましたが、どうしても書けず、駄目なら駄目でいいやと覚悟を決めたそうです、
そして、河合隼雄を合格させるかどうかの委員会で大議論がありましたが、三時間の大議論の末、結局、資格を与えることに決まりました。
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河合隼雄は、その時のことを次のように書いています。
「それで、まあ、資格をもろうたんだけど、考えたら、この一連の事柄は非常にうまいこといっているんですよ。資格をもらうための見事なイニシエーションになっています」
「マイヤー(筆者注:河合隼雄の指導教官)が『これをアレンジしたのはだれか』と言ったのです。(略)誰がアレンジしたわけでもないけど、ものすごく見事にできてる」
「その話をしたら、哲学の上田閑照(うえだ しずてる)さんが喜んで、『それはええ質問や』言うてね。それで、『質問には答えんでもええ』と言うんですよ。(略)このとき。上田さんに『答は問処(もんしょ)にあり』という禅の言葉を教えてもらいました」
「結局、みんなが死物狂いで好きなことやっていたら、うまくいっていたということです」
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「誰がアレンジしたのか」と考えることは、別の言葉で言えば、
「一生懸命やった上で生じたことを排除するのではなく、それを正面から受け止める」ということだと思います。
上の事例では、最終試験に受かるという願いが成就しましたが、仮に成就しなかったとしても、
「誰がアレンジしたのか」と考えることによって、挫折の体験を正面から受け止める視点を持つことができ、次の発展への可能性に繋げていけるのではないかと思います。
このことに関し、河合隼雄は別の著作で次のように書いています(「新しい教育と文化の探求」創元社 200ページ)。
「このような立場を取ると、今まで見えなかったものが見え始め、不幸と思い、不合理と感じる事象が、全体としてアレンジメントをなしていることが分かるのである」
また、「答は問処にあり」というのも意味深い禅の考えです。
世の中の不思議・不条理は全て禅問答であり、それを問うことが「答は問処にあり」なのかもしれません。
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次回も、河合隼雄の著作を引用しながら具体例を挙げつつ、シンクロニシティを考察していきたいと考えています。
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