横浜中華街を散策:横浜山手で歴史に思いを馳せる(番外編)
- 2019/12/20
- 08:49
前回の「横浜山手で歴史に思いを馳せる(最終回):山手資料館/境界石/生麦事件」で、横浜山手散策シリーズを終了しましたが、
今回は、番外編として、横浜山手散策の最後に訪問した「生麦事件犠牲者の墓」から横浜中華街に入って散策してみます。
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(横浜中華街)
「横浜山手で歴史に思いを馳せる(1):荻野アンナの自宅/石川代官所/クリフサイド/元町百段公園」で書いた「前田橋」を渡ると「横浜中華街」の朱雀門があります(下の写真)。
横浜中華街の地図は(下の写真)、
「沢田研二の自宅と湧水を横浜山手で探訪(1):沢田研二・岡田准一の自宅/元町商店街/ダニエル」でご紹介した、横浜駅にある「観光案内所」でも入手できますが、
JR石川町駅の中華街改札口の改札の外や(下の写真)、
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みなとみらい線の元町・中華街駅のエレベーターを上った改札内(下の写真)にも置かれています。
この地図を見ながら、まず「朱雀門」から横浜中華街に入ってみます。
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(南門シルクロード)
朱雀門からの道は「南門シルクロード」と呼ばれていますが、
これは「西洋的な元町」と「東洋的な中華街」を結ぶ道路ということで「シルクロード」という名を付けたそうです。
この「南門シルクロード」には、航海・漁業の守護神である「媽祖」(まそ)を祀る「媽祖廟」があります。平成18年(2006年)に落慶開廟しました。
(聘珍樓本店)(萬珍樓本店)
この「南門シルクロード」をさらに進んで、「中華街大通り」に入ると、明治17年(1884年)創業で、日本に現存する最古の中華料理店とされる「聘珍樓本店」があります。
「孫文・魯迅が暮らしたチャイナタウン神田神保町(1):漢陽楼/揚子江菜館/維新號/咸亨酒店」でご紹介した「維新號」が明治32年(1899年)創業ですから、確かに古い中華料理店です。
さらに進むと、「萬珍樓本店」があります。
この「萬珍樓」では春節の時期になると、中国の伝統的正月料理(お供え)が展示されます(下の写真)。
下の写真は横浜中華街の春節の様子です。
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(関帝廟)
ここから中山路を通って、三国志の武将・関羽を祀る「関帝廟」(かんていびょう)に行きます。
この「関帝廟」の歴史は古く、文久2年(1862年)に一人の中国人が関羽の木像でこの地にささやかな祠を開いたのが始まりとされますので、横濱華僑の歴史と重なります。
(横濱中華学院)
この「関帝廟」の隣には「横浜中華学院」があります。
この「横浜中華学院」は台湾系の中華学校で、校舎内に「孫文」の胸像があります(下の写真)。
校舎内には入れませんが、校舎の外から撮った写真です。
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(孫文)
孫文は中華人民共和国、中華民国(台湾)の双方から尊敬されている珍しい人物ですが、日本と関わりの深い人です。
号は中山ですが、これは居住した日比谷公園近くに「中山」という邸宅があり、その門の表札が気に入って「中山」としたそうです。
さきほど歩いた「中山路」も孫文にちなんでつけられた名前です。
横浜中華街には、「横浜中華学院」そばには、孫文が日本に亡命していたときの事務所であった「中山記念堂」があります(下の写真)。
なお、『「周恩来の食べた肉団子」と「プチ神田神保町散策」』でご紹介した神田神保町にある「漢陽楼」は孫文がよく通った中華料理店で、孫文が愛したお粥を今でも提供しています(下の写真)。
(逆さの「福」)
『「周恩来の食べた肉団子」と「プチ神田神保町散策」』でも書きましたが、中華街を歩いていると、時々「福」の字を上下逆さまにした「福」を見かけます(下の写真)。
これは中国語で「倒福」(福を逆さまにする)と「到福」(福が来る)の発音が同じことから、「福」の字を逆さまにする中国の伝統・風習からきています。
香港などの海外にある華僑街ではよく見かけますが、日本人の感性からは受け入れにくい面があるため、横浜中華街ではあまり見かけません。
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