銀座の高級クラブ界隈を歩く~銀座散策~神社・裏路地巡り~(9):CLUB Nanae/鹿鳴館/出世街道
- 2019/11/29
- 10:48
ルーブル美術館など世界の美術館・博物館のお土産が買える店「MMM」などを見てきました。
今回は、花街の面影や銀座の高級クラブ界隈などを見ていきます。
(※)花街に関する記事については、「古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など」のカテゴリがありますので、ご関心のある方はこちらをご覧ください。
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(花街の面影)
「金春湯」から「花椿通り」に戻り、「見番通り」に行きます。
位置関係が分かりにくくなってきましたので、この界隈の地図を掲載します(中央区作成の地図に筆者が補足したもの)。
この銀座8八丁目界隈は、江戸時代末期から新橋花柳界があり、「金春芸者」(こんぱるげいしゃ)と呼ばれる芸者がいました。
Wikipediaによれば、平成19年(2007年)現在、70人の芸者がいると書かれています。
この「見番通り」には「新橋会館」があります。
「新橋会館」の7階には新橋花柳界を束ねる「東京新橋組合」があり、5・6階には芸者の稽古場があります。
銀座にあるにも関わらず、「新橋」を名乗っているのは、新橋花柳界の伝統と誇りを感じさせます。
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また、この界隈は銀座の高級クラブが多いのですが、これも花街の名残(面影)と考えられます。
過去と切り離されたように見える銀座ですが、よく観察すると、歴史が継続していることを発見することができます。
また、他の歓楽街と違って、銀座の高級クラブは通常の飲食店や店舗の中に溶け込んでいるのが銀座らしい特徴です(下の写真は、夜の銀座8丁目)。
(※)花街に関する記事については、「古道・暗渠・花街・戦争遺構・廃線跡など」のカテゴリがありますので、ご関心のある方はこちらをご覧ください。
(鹿鳴館時代と新橋芸者)
明治初期、(現在の帝国ホテル近くにあった)鹿鳴館で外国人相手に慣れない舞踏会で疲れた政府高官が、舞踏会後、この界隈にある料亭で新橋芸者を呼んで和式の宴会でくつろいだそうです。
江戸東京博物館で展示されている当時の鹿鳴館舞踏会の様子です(鹿鳴館は昭和15年(1940年)に取り壊されました)。
(出典:江戸東京博物館。写真撮影は許可されています)
なお、「旧島津公爵邸(清泉女子大学):高橋英樹の自宅/城南五山に残された邸宅」で書きましたが、
五反田にある旧島津公爵邸は、鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルが設計した建築物で、そこの階段は鹿鳴館の階段と似ているため(下の写真)、鹿鳴館に関する撮影によく利用されるそうです。
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(明治政府と文在寅韓国政府)
鹿鳴館で慣れない舞踏会を敢えて行ったのは、江戸幕府が欧米諸国と締結した不平等条約の改正が目的でした(結果として、この鹿鳴館外交はうまく機能しませんでした)。
この不平等条約は明治政府とは関係のない江戸幕府が締結した国際条約でしたが、
前の政権が締結した国際協定は遵守するというのが近代の国際社会の常識・約束ですので、明治政府はその常識・約束に従って行動したわけです。
このことを踏まえると、昨今の文在寅(ムン・ジェイン)韓国政府が、昭和40年(1965年)に締結された国際約束である日韓請求権協定を「ちゃぶ台返し」するような行為を行っていることは大変遺憾ですし、
ひいては国際社会における韓国の信用をなくすことにもなると思います。
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(出生街道)
さて、「銀座散策」に戻ります。
この「見番通り」をさらに進むと、銀座の会員制高級クラブ「CLUB Nanae」があります。
「CLUB Nanae」を経営する唐沢奈々江はテレビにもよく出演している銀座クラブのママです。
この「CLUB Nanae」脇の路地裏(下の写真)に入っていきます。
すると、「並木通り」に出ます。
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「並木通り」から見たこの裏路地です。
この「並木通り」を渡って、ガードをくぐると、
「国会通り」があります。
先程の細い路地裏から国会通りにかけては「出世街道」と呼ばれています。
田中角栄など政治家が銀座のクラブで飲んだ後、この経路を歩いて永田町方向に帰ったことから、「出世街道」と言われるようになったそうです。
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次回は、「銀座散策~神社・路地裏巡り」シリーズの最終回として「銀座ナイン」まで行ってみます。
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