唐人お吉の悲話~横浜山手で歴史に思いを馳せる(2):下田長屋
- 2019/10/29
- 08:19
荻野アンナの自宅や、石川代官所長屋門、石原裕次郎などの芸能人が通ったクリフサイドを探訪しました。
今回は、幕末の歴史に翻弄された「唐人お吉」ゆかりの下田長屋などを見ていきます。
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(下田長屋)
「麒麟麦酒発祥の地を巡りながら横浜山手の湧水を探訪する(最終回)」で通り過ぎた「フェリス女学院高校」(写真左)の脇の階段(写真右)を降りてゆくと、「唐人お吉」が暮らした「下田長屋」に行くことができますが、
私は、元町交差点(下の写真)から坂を登っていきました。
坂を登っていくと、小さな長屋が軒を連ね場所があります。このあたりが「下田長屋」です。
このあたりは、横濱開港当時、建設業に携わっていた肉体労働者たちが住んでいました。住人は下田出身者が多いため、「下田長屋」と呼ばれていた所です。
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(唐人お吉)
「唐人お吉」は幕末から明治にかけての下田の芸者でした。下田奉行所の要請により初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの世話を行ったため「唐人お吉」と呼ばれています。
お吉はハリスの世話をすることを固辞したそうですが、奉行所が強引に世話をさせました。
下の写真は、「唐人お吉物語」(文芸社、竹岡範男著)の表紙ですが、現代風の美人ですね。
ハリスが日米修好条約を締結するために、「麻布台から麻布十番散策(最終回)」でご紹介した麻布善福寺にあったアメリカ公使館に赴いた際にも同行して江戸に来たそうです(下の写真は麻布善福寺にあるハリス記念碑)。
当時、日本の婦人が異人に身を任せることには強い偏見があったため、(上述したように)お吉はハリスの世話をすることを固持したのですが、幕府からの執拗な要請で嫌々ながらハリスのもとに行きました。
このため、ハリスから解雇された後、お吉は「羅紗緬」(らしゃめん)として周囲から蔑まれ冷たく扱われました。
幼馴染の鶴松と同棲していた場所がこの「下田長屋」です。この下田長屋には4年間住んでいたそうで、この期間がお吉にとって最も幸せな時期だったのではないでしょうか。
その後下田に戻りましたが周囲の偏見のために酒に溺れ51歳で投身自殺しました。その遺体は3日間も放置されたそうです。
現在は「唐人お吉記念館」のある宝福寺(静岡県下田市)にお墓があります。
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また、三鷹にある山本有三記念館で(下の写真)、
山本有三がお吉の生涯を描いた戯曲「女人哀史」の企画展が行われていましたが、
幕末の時代に翻弄されたお吉の悲話が、山本有三の戯曲により新派・新劇・歌舞伎で上演された資料などが、この企画展で展示されていました(下の写真)。
(出典:山本有三記念館の展示。館内の撮影は許可されています)
お吉の悲話は現在でも人々の胸を打つようです。
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次回は、「山手資料館」、「生麦事件犠牲者の墓」などを探訪します。
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