品川駅の謎を解く(1):港区内の品川駅・ゴジラの絵
- 2018/05/04
- 18:05
品川駅は歴史散歩・地形散歩をする時の拠点になる駅です。
南に行けば江戸時代に作られた旧東海道があり東海道の第一宿場であった「品川宿の風情」を楽しめますし、
西に向かって坂を登れば、古代東海道でもあり、徳川家康が江戸入城の際に通ったであろう「二本榎通り」を歩くことができます。
第一京浜(第一京浜は、道幅が拡張され昔の風情はなくなったものの、江戸時代の東海道に沿って走っています)に沿って北に行けば、幕末にイギリス公館が置かれ、攘夷派の武士が襲撃した「東禅寺」、四十七士が眠る「泉岳寺」、「西郷隆盛と勝海舟の会見場所跡」など歴史の教科書に載っているような史跡が沢山あります。
今回は、散策拠点である品川駅について「トリビアの泉」的に見ていきたいと思います。
☆☆☆
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【品川駅は港区にある】
ご存知の方も多いかと思いますが、品川駅は品川区ではなく港区の南端にあります。
このような事例は他にもあります。目黒駅は品川区にありますし、板橋駅は、板橋区・北区・豊島区の3つの区にまたがっています。板橋駅の駅長室は板橋区にあるそうです(笑)。
当初は、東海道五十三次の第一宿として栄えていた品川宿(今の北品川)に品川駅を置こうとしていましたが、汽車の煙の煤で汚れる、火の粉が火事を起こす恐れがあるとして、地元の反対にあって、今の品川駅の場所に設置されたとのことです。
既存の市街地である品川宿の用地買収に手間取るのを避けたという説もありますが、いずれにせよ、当初予定していた北品川よりさらに北の今の場所に品川駅ができました。
品川駅と命名された理由
約2年半という短い期間ですが、1869年(明治2年)に設置された品川県という行政区域があり、今の港区もこの品川県に含まれていました。
この品川県が廃止された直後の1872年(明治5年)に今の品川駅が開業しました。
品川駅と命名されたのはこのような経緯があったことと、当時の「品川」はブランドとしての価値があったので、品川駅と名付けられたと考えられます。高輪に近いので高輪駅としてもよかったのですが、品川駅になったのですね。
なお、品川駅の開業当時、港区はありませでした。港区ができるのは現在の23区制度ができる1947年(昭和22年)で、それ以前は、芝区に品川駅は属し、芝区・赤坂区・麻布区が合併して港区ができました。
【品川駅にゴジラ?】
品川駅の山手線(上野方面)の8号車付近のホームの床にゴジラの絵のプレートがあります。

「えっ、ゴジラ?」と驚きましたが、1954年公開の初代ゴジラは、太平洋での水爆実験から目が覚め、東京湾から品川に上陸したんですね。
中世の品川は品川湊として栄え、武蔵国の国府であった府中の外港となり、府中と品川を結ぶ道も作られました。この道は品川道として今でも残っています。
今の東京の中心地は湿地帯の中にある寒村にすぎず(丸の内や日比谷は海の中でした)、府中が武蔵国の中心地でした。
北品川にある荏原神社は、武蔵国の総社であり府中にある大國魂神社(おおくにたま神社)と関係が深く、現在でも品川海上禊式が行われています。
この品川海上禊式は康平5年(1062年)に源頼家、義家親子が奥州へ遠征した時に、品川の海から海水を汲んで府中明神に戦勝祈願したことに始まる歴史のある行事で、品川と国府のあった府中との関係の深さを示すものです。
また、品川湊は江戸時代には江戸湾の海上交通の要地でした。
ゴジラはこのような品川の重要性・歴史の重みに敬意を払い、まず品川から東京に侵入したのかもしれませんね。
現代の日本人よりもゴジラのほうが歴史に詳しいのかもしれません(笑)
JRもなかなかシャレたことをするものです。
このゴジラの絵については、まだまだいろいろな意味が込められています。
次回にご期待下さい!!
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南に行けば江戸時代に作られた旧東海道があり東海道の第一宿場であった「品川宿の風情」を楽しめますし、
西に向かって坂を登れば、古代東海道でもあり、徳川家康が江戸入城の際に通ったであろう「二本榎通り」を歩くことができます。
第一京浜(第一京浜は、道幅が拡張され昔の風情はなくなったものの、江戸時代の東海道に沿って走っています)に沿って北に行けば、幕末にイギリス公館が置かれ、攘夷派の武士が襲撃した「東禅寺」、四十七士が眠る「泉岳寺」、「西郷隆盛と勝海舟の会見場所跡」など歴史の教科書に載っているような史跡が沢山あります。
今回は、散策拠点である品川駅について「トリビアの泉」的に見ていきたいと思います。
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【品川駅は港区にある】
ご存知の方も多いかと思いますが、品川駅は品川区ではなく港区の南端にあります。
このような事例は他にもあります。目黒駅は品川区にありますし、板橋駅は、板橋区・北区・豊島区の3つの区にまたがっています。板橋駅の駅長室は板橋区にあるそうです(笑)。
当初は、東海道五十三次の第一宿として栄えていた品川宿(今の北品川)に品川駅を置こうとしていましたが、汽車の煙の煤で汚れる、火の粉が火事を起こす恐れがあるとして、地元の反対にあって、今の品川駅の場所に設置されたとのことです。
既存の市街地である品川宿の用地買収に手間取るのを避けたという説もありますが、いずれにせよ、当初予定していた北品川よりさらに北の今の場所に品川駅ができました。
品川駅と命名された理由
約2年半という短い期間ですが、1869年(明治2年)に設置された品川県という行政区域があり、今の港区もこの品川県に含まれていました。
品川区域が入る品川県の範囲は、支配の入り組みはあるものの、概ね東京の南西部、今の品川・港・大田・世田谷・目黒・渋谷・新宿・中野・練馬・杉並の各区から、多摩地区の武蔵野・三鷹・狛江・西東京・調布・府中・国分寺などの各市、神奈川県では横浜市・川崎市のほか埼玉県の一部も入るという、広大なものでした。(品川区ホームページより)
この品川県が廃止された直後の1872年(明治5年)に今の品川駅が開業しました。
品川駅と命名されたのはこのような経緯があったことと、当時の「品川」はブランドとしての価値があったので、品川駅と名付けられたと考えられます。高輪に近いので高輪駅としてもよかったのですが、品川駅になったのですね。
なお、品川駅の開業当時、港区はありませでした。港区ができるのは現在の23区制度ができる1947年(昭和22年)で、それ以前は、芝区に品川駅は属し、芝区・赤坂区・麻布区が合併して港区ができました。
【品川駅にゴジラ?】
品川駅の山手線(上野方面)の8号車付近のホームの床にゴジラの絵のプレートがあります。

「えっ、ゴジラ?」と驚きましたが、1954年公開の初代ゴジラは、太平洋での水爆実験から目が覚め、東京湾から品川に上陸したんですね。
中世の品川は品川湊として栄え、武蔵国の国府であった府中の外港となり、府中と品川を結ぶ道も作られました。この道は品川道として今でも残っています。
今の東京の中心地は湿地帯の中にある寒村にすぎず(丸の内や日比谷は海の中でした)、府中が武蔵国の中心地でした。
北品川にある荏原神社は、武蔵国の総社であり府中にある大國魂神社(おおくにたま神社)と関係が深く、現在でも品川海上禊式が行われています。
品川海上禊祓式 午後1時 神職及び所役が汐盛講中の世話により、荏原神社(東京都品川区)から品川湊(現在の品川沖)に赴き手や口を海水で身を清め、海水を樽にいれて持ち帰る。大祭期間中の朝夕潔斎時にこの海水を使用する(汐汲み・お浜降り)。この際は古くから品川道を利用する (Wikipediaより)
この品川海上禊式は康平5年(1062年)に源頼家、義家親子が奥州へ遠征した時に、品川の海から海水を汲んで府中明神に戦勝祈願したことに始まる歴史のある行事で、品川と国府のあった府中との関係の深さを示すものです。
また、品川湊は江戸時代には江戸湾の海上交通の要地でした。
ゴジラはこのような品川の重要性・歴史の重みに敬意を払い、まず品川から東京に侵入したのかもしれませんね。
現代の日本人よりもゴジラのほうが歴史に詳しいのかもしれません(笑)
JRもなかなかシャレたことをするものです。
このゴジラの絵については、まだまだいろいろな意味が込められています。
次回にご期待下さい!!
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