多様な宗教施設がある内神田の西側を散策(1):湯島聖堂/太田姫稲荷神社/ニコライ堂
- 2019/05/31
- 06:03
前回の「孫文・魯迅が暮らしたチャイナタウン神田神保町を探索」シリーズでは、神田神保町界隈を「チャイナタウン」という切り口で見てきましたが、
今回は、「宗教施設」の切り口で千代田区内神田地区の西側を見ていきたいと思います(湯島聖堂は文京区湯島にありますが、この湯島聖堂も訪れます)。
神田川の南側にある内神田は、江戸時代は西側が武家地(主として神田淡路町より西側の地域)、東側が町人地であり、今でも町並みの雰囲気が異なります。
なお、「お茶の水→水道橋散策(1)」及び「お茶の水→水道橋散策(3)」でも同じ施設を歩きましたが、今回は新たな視点から見てみたいと思います。
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(聖橋)
JR御茶ノ水駅の「聖橋口」を左に曲がると「聖橋」(ひじりばし)があり、
聖橋を渡ると、「聖橋の碑」があります。
その碑には、聖橋が昭和2年(1927年)に完成したこと、北側に「湯島聖堂」、南側に「ニコライ堂」の2つの「聖」があることが名前の由来であると書かれています。
(湯島聖堂:伊東忠太と湯島聖堂)
上で書いたように、聖橋の北側には儒教の振興を図るため江戸幕府が建てた「湯島聖堂」があります。
大成殿は明治から昭和期の建築家・伊東忠太(いとう ちゅうた)が設計したものですが、伊東忠太が設計した他の建物と同じく、不思議な生き物(妖怪)が置かれています。
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下の写真は、聖堂内に展示されている伊東忠太設計の妖怪ですが、聖堂内ではこれらの妖怪を実物大で見ることができます。
下の写真は、伊東忠太設計の「東京都慰霊堂」(墨田区)の妖怪です。
伊東忠太がこのような妖怪を好んだ理由はよく分かりませんが、不可知なものへの畏敬を表すことにより人間の傲慢さを抑えようとしたのかもしれません。
「多神教と一神教」で「日本人は宗教に無節操なのか?」というテーマで記事を書き、
日本人は多神教を信じる民族なので宗教に無節操なわけではない、「大いなるもの」(something great)への畏敬・尊敬心が日本人の宗教なのかもしれないと私見を述べました。
伊東忠太もこのような「大いなるもの」(something great)への畏敬・尊敬心を妖怪を通して表そうとしたのかもしれません。
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また、湯島聖堂には「孫文・魯迅が暮らしたチャイナタウン神田神保町を探索(2)」で書いた孔子像がありますが(下の写真)、
ここには、「観光名所・東大キャンパスを散策(最終回)」の「小柴ホール」の章でご紹介した、学問の木である「カイの木(楷の木)」があります。
東大の「カイの木(楷の木)」よりも大きくて立派な木です。
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(太田姫稲荷神社:神道)
ニコライ聖堂から池田坂を南に進むと、「太田姫稲荷神社」があります。
もともとは、現在の御茶ノ水駅近くにあったのですが、鉄道の拡張に伴って現在の場所に移転しました。
元々あった場所には「元宮」が置かれています。神札が掲げられている神木ですが、神社というよりは元々あった場所を示すものとなっています。
下の写真は、「湯島聖堂」に展示されていた明治時代の写真です(まだ鉄道は敷設されておらず、武家屋敷や高等師範学校が見えます)。
JR御茶ノ水駅のホームは段差になっていて使い勝手が悪いのですが(下の写真)、これは狭い場所に無理やり駅を作ったために、このような構造にせざるを得なかったからです。
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(ニコライ堂:ロシア正教)
ニコライ堂の正式名称は「東京復活大聖堂」で、日本最大のビザンチン様式の教会です。明治24年(1891年)竣工。
(ニコライ堂と杉原千畝)
ニコライ堂の正面にある建物は、以前はロシア語を教えていた学校ですが(下の写真)、
ユダヤ人に大量のビザを発給し「東洋のシンドラー」と言われる杉原千畝(すぎはら ちうね)がここでロシア語を教えていたことがあります。
外務省退官後、杉浦千畝は職を転々としましたが、その中の一つがニコライ学院でのロシア語教授でした。
なお、杉原千畝資料館(杉原千畝Sempo Museum)が中央区京橋に最近できました(中央区八重洲2丁目7-9 相模ビル2階)。
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(日本におけるロシア正教について)
今回は、ニコライ堂の方にいろいろお話を伺いました。興味深い点をまとめたところ以下のとおりです。
・日本に正教を伝導したロシア人のニコライが建てた教会である。ニコライは幕末の安政7年(万延元年。1860年)に日本にやってきた。
・当時の信者は武士階級、特に仙台藩の武士が多かった。このため、仙台市には今でも聖堂がある。
・坂本龍馬の従兄弟である山本琢磨(やまもと たくま)が日本で初めて正教会の信者になった人物である。
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・ニコライ堂はロシア人のシチュールポフが設計し、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督を行った。コンドルがどの程度設計に関与したかはわからない(←本ブログでは、今までジョサイア・コンドルがニコライ堂を設計したと説明してきましたが訂正します)。
・建設にあたっての費用はロシアの富裕層からの寄付によって賄われた。
・像は置かない。イコンのみである(下の写真はロシア正教のイコン(出典:「ロシア正教のイコン」(創元社。「知の発見」双書153)。
・ステンドグラスは、文京区関口にある関口教会のステンドグラスと同じものである。
この他、私が調べて興味深いと思った点は以下のとおりです。
・正教会は各国ごとに自治教会となっている各国主義を採っている。したがって、ニコライ堂に描かれているキリストは日本語の聖書を抱えています。
・ニコライ堂は上から見ると十字架の形をしており、このため米軍の爆撃を免れたという説がある。
↑上の説はあまり信用できませんが、神田は当時から世界最大級の古書店街として知られており、このため空襲が行われなかったという説があります。私はこちらのほうが正しいと思います。
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次回はさらに、キリスト教・チベット仏教などの施設を訪れてみます。
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