地形と歴史で推理してみる(1):日本橋~茅場町地下通路
- 2018/05/01
- 09:55
今回は地形と歴史で推理するとどうなるか試してみたいと思います。
「遊び心」でやっていますので、気楽に読んでみてください。
(なお、本記事はあくまで地形と歴史で謎解きする趣旨です。土木工学的には別の説明ができるかもしれませんので、その点はご承知おきください)
☆☆☆
☆☆☆
(事の発端)
事の発端は、「日本橋から茅場町まで地下通路を使って歩けないか?」と思ったところから始まります。ここは、営団東西線・銀座線・日比谷線と都営浅草線の4つの地下鉄が通っているエリアです。地図を見ていただくと分かるのですが地下通路が一直線でつながっていて歩けそうなんです。
イメージ図を御覧ください。(ド素人丸出しの図ですみません)

この地下通路を歩こうと2~3回トライしたのですが通路の壁に突き当たってどうしてもできませんでした。駅員さんに聞いたところ、「日本橋から茅場町まで地下通路を使って行くことはできない」とのことでした。
しかし、地図上はどうしてもつながっている感じがしてならず、さらにトライしそれでもできないので別の駅員さんに聞いてみました。すると、「エレベーターを使えばできますよ」との回答でした。
ありました。そのエレベーターを使うと日本橋から茅場町まで地下通路を使って歩いていけたんです。駅員さんでさえ知らない歩き方がありました。
実際歩いてみると不思議な事に気づきました。日本橋駅~茅場町駅間の途中ではエレベーターを使って複雑な経路を歩くのですが、全体として見ると地下1階分程度下っています。
ということで、何故、地下1階分程度下っているのか地形と歴史で推理してみます。もちろん、上に書いたように、他の土木工学的な理由もあるかもしれませんが、あくまで「地形と歴史」を使った謎解きです。
今回の記事では謎解きを試み、次回の記事では実際の経路をたどってみます。日本橋・茅場町近辺で働いている方々、住んでいる方々には、雨・雪や夏の炎天下を避けて、日本橋~茅場町間を歩けるので便利かと思います。
(地形と歴史で推理)
「南町奉行所と東京ミッドタウン日比谷」で書いたように、江戸幕府が埋め立てるまでは日比谷から大手町の間は入江になっていました(日比谷入江)。日本橋から新橋にかけては「江戸前島」という半島があり、その東側には「江戸湊」と呼ばれる海がありました。(下図はその時代のイメージ図です)

今の首都高速都心環状線は江戸時代の楓川(かえで川。自然の河川ではなく人工の堀)を利用して建設されたもので、その旧楓川の上やその中を走っています。
首都高速道路の多くは都心の渋滞を緩和するために、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを前に、短期間で作られたものですが、土地買収の費用と手間を軽減するために、江戸時代に作られた堀を利用して建設されました。
首都高速道路を運転していると、不自然な迂回経路や急なカーブがありますが、これは堀の形に沿って建設したからです。
江戸時代の遺産の上に現代の輸送網が成り立っているわけです。
先程の概略図に手を加え、江戸時代以前のイメージ図を下に掲載します。この首都高速道路より東側の土地は海でした。傾斜がゆるいので遠浅の海だったと思います。遠浅だから江戸幕府は埋め立てできたのでしょう。

このように江戸前島のやや高いところから海に向かって下ったので地下1階分程度下がることになったと推測できます。
江戸時代以前の地形の記憶が現在まで残されており、その土地の記憶の中を現代の私達が歩いていると考えるとまた違った東京が見えてくるのではないでしょうか。
地下通路を縦に切って横から見た概念図です。(途中、いくつかの小さな上り下りの階段がありますが、それらは省略しています。旧楓川の川床下にある通路が凹んでいるところにも注目してください)

「実際に歩いた経路」は次回お話します。
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「遊び心」でやっていますので、気楽に読んでみてください。
(なお、本記事はあくまで地形と歴史で謎解きする趣旨です。土木工学的には別の説明ができるかもしれませんので、その点はご承知おきください)
☆☆☆
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(事の発端)
事の発端は、「日本橋から茅場町まで地下通路を使って歩けないか?」と思ったところから始まります。ここは、営団東西線・銀座線・日比谷線と都営浅草線の4つの地下鉄が通っているエリアです。地図を見ていただくと分かるのですが地下通路が一直線でつながっていて歩けそうなんです。
イメージ図を御覧ください。(ド素人丸出しの図ですみません)

この地下通路を歩こうと2~3回トライしたのですが通路の壁に突き当たってどうしてもできませんでした。駅員さんに聞いたところ、「日本橋から茅場町まで地下通路を使って行くことはできない」とのことでした。
しかし、地図上はどうしてもつながっている感じがしてならず、さらにトライしそれでもできないので別の駅員さんに聞いてみました。すると、「エレベーターを使えばできますよ」との回答でした。
ありました。そのエレベーターを使うと日本橋から茅場町まで地下通路を使って歩いていけたんです。駅員さんでさえ知らない歩き方がありました。
実際歩いてみると不思議な事に気づきました。日本橋駅~茅場町駅間の途中ではエレベーターを使って複雑な経路を歩くのですが、全体として見ると地下1階分程度下っています。
ということで、何故、地下1階分程度下っているのか地形と歴史で推理してみます。もちろん、上に書いたように、他の土木工学的な理由もあるかもしれませんが、あくまで「地形と歴史」を使った謎解きです。
今回の記事では謎解きを試み、次回の記事では実際の経路をたどってみます。日本橋・茅場町近辺で働いている方々、住んでいる方々には、雨・雪や夏の炎天下を避けて、日本橋~茅場町間を歩けるので便利かと思います。
(地形と歴史で推理)
「南町奉行所と東京ミッドタウン日比谷」で書いたように、江戸幕府が埋め立てるまでは日比谷から大手町の間は入江になっていました(日比谷入江)。日本橋から新橋にかけては「江戸前島」という半島があり、その東側には「江戸湊」と呼ばれる海がありました。(下図はその時代のイメージ図です)

今の首都高速都心環状線は江戸時代の楓川(かえで川。自然の河川ではなく人工の堀)を利用して建設されたもので、その旧楓川の上やその中を走っています。
首都高速道路の多くは都心の渋滞を緩和するために、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを前に、短期間で作られたものですが、土地買収の費用と手間を軽減するために、江戸時代に作られた堀を利用して建設されました。
首都高速道路を運転していると、不自然な迂回経路や急なカーブがありますが、これは堀の形に沿って建設したからです。
江戸時代の遺産の上に現代の輸送網が成り立っているわけです。
先程の概略図に手を加え、江戸時代以前のイメージ図を下に掲載します。この首都高速道路より東側の土地は海でした。傾斜がゆるいので遠浅の海だったと思います。遠浅だから江戸幕府は埋め立てできたのでしょう。

このように江戸前島のやや高いところから海に向かって下ったので地下1階分程度下がることになったと推測できます。
江戸時代以前の地形の記憶が現在まで残されており、その土地の記憶の中を現代の私達が歩いていると考えるとまた違った東京が見えてくるのではないでしょうか。
地下通路を縦に切って横から見た概念図です。(途中、いくつかの小さな上り下りの階段がありますが、それらは省略しています。旧楓川の川床下にある通路が凹んでいるところにも注目してください)

「実際に歩いた経路」は次回お話します。
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