戸越銀座散策(2):戸越の地名の由来/東京35区の痕跡/荏原の地名について
- 2019/04/08
- 08:04
前回の「戸越銀座散策(1)」では、
本家本元の銀座との歴史的な関係、安倍総理の訪問、地形から見た戸越銀座について書きました。
今回は、「戸越」の地名の由来を調べたり、東京が35区だった頃の痕跡などを見ていきたいと思います。
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(戸越の由来)
「戸越」の地名の由来は、「江戸を超える」から来ているのですが、そのことを伝える神社がありますので行ってみましょう。
その神社は「荏原「戸越八幡神社」(品川区戸越2丁目6−23)ですが、
この神社に、「戸越の地名の起り」の碑があります。
この碑には、「江戸を超える村というのでこの名が生まれ トゴエと呼びました」と書かれています。
なお、この神社境内には、氏子の方が奉納したというソファや毛布が置かれ、地元の方と思われる人たちがのんびりと寛いでいました。
無料で充電もできるようです。
神社と地元の方々との温かい交流が感じられます。
(戸越公園)
戸越八幡神社からさらに南に進むと、熊本藩細川家の下屋敷跡に作られた「戸越公園」があるのですが、
この「戸越公園」については、別記事(「戸越銀座でパンケーキ」と「プチ戸越銀座散策」)で書きますので省略します。
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(三ツ木通りと東京35区だった頃の痕跡)
戸越商店街を歩いていくと、「戸越銀座通り」が突然「三ツ木通り」と名称が変わります。
道路も商店街も一体化しているのに、なぜ名前だけが変わるのか不思議なのですが、
実は、「戸越銀座通り」と「三ツ木通り」の境が旧荏原区と旧品川区の区境になっていたために名称が変わっているのでした。
つまり、東京が35区だった頃の痕跡が今でも残っていたのです。
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太平洋戦争による都心部の人口の激減により各区の運営が厳しくなってきたため、昭和22年(1947年)に東京35区が現在の23区に再編成されたことは、本ブログでも度々取り上げてきましたので、ご関心のある方は「田園調布界隈を歩く(2)」をお読みいただきたいのですが、
東京35区を23区に再編成する際には、区を合併して新たな名称をつくりました。
その際には、それぞれの名前の部分を合成して新名称をつくったり(例えば、大森区の「大」と蒲田区の「田」を合成して「大田区」としたなど)、
全く新しい名称にしたりしました(例えば、赤坂区・麻布区・芝区は合併して新たに「港区」となりました(「港区白金・広尾・プラチナ通りを歩く(1)」を参照)。
ところが、旧荏原区と旧品川区の場合には、旧品川区のほうが人口的にも経済的にも圧倒的に大きかったため、旧品川区が旧荏原区を吸収合併した形になって「荏原」の名前が消え、「品川区」の名前が残りました。
旧荏原区の人たちの不満は大きかったと思います。
ご参考までに、「東京人」という雑誌が、東京35区を特集したときの「表紙の写真」(左の写真)と「品川区、荏原区部分の拡大」(右の写真)を掲載します(出典:「東京人no.353」(都市出版株式会社))。
この特集のサブタイトルは「江戸の名残、23区の内なるボーダー」となっていますが、35区の区境を調べていくと、隠れていた「内なるボーダー」が見えてきて驚かされることがあります。
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(荏原の地名)
最後に、「荏原」の地名について考察してみたいと思います。
「荏原」は室町時代からあった由緒ある地名で、現在の品川区・目黒区・大田区・世田谷区の東半分、川崎市の東側を含む大きな地域でした。
それが、上で述べたように「荏原区」に縮小し、
現在では、「荏原中延」、「荏原町」というごく限られた地区にのみ存在する地名となってしまいました。
「赤坂の「坂」を散策」の「赤坂の由来」で書きましたが、港区にある現在の赤坂は「一ツ木」と呼ばれていましたが、それが「赤坂」に取って代わられ、
今では、「一ツ木通り」、「一ツ木公園」という名に痕跡を残すのみとなった現象と似ています。
地名にも栄枯盛衰があるのですね。
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これで、戸越銀座散策を終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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