平成通りを歩く(2)
- 2019/03/21
- 22:35
「「銀座で唯一の踏切」を探して築地界隈を散策」から始まった「平成通りを歩く」シリーズの第3弾です。
前回は、平成通りを築地から歩いて「桂川甫周屋敷跡」まで来ました。
今回は、「桂川甫周屋敷跡」から築地橋まで散策します。
今回もいろいろな見どころを見ていきます。
参考記事:
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(築地玉寿司:手巻き寿司発祥の店)
さらに平成通りを進むと「築地玉寿司」の本店があります。
大正13年(1924年)創業の老舗で、手巻き寿司発祥の店でもあります。このため毎月8日は「手巻きの日」として、35種類の手巻きが1本100円(税抜き)で食べれるそうです。
(宮川食鳥鶏卵株式会社:重厚な看板建築)
「築地玉寿司」の向かいに「宮川食鳥鶏卵株式会社」があります。
看板建築が素晴らしい建物です。看板建築は関東大震災後に作られた建築様式ですが、詳しくは「浅草橋→神田散策(2)」で書きましたので、ご関心のある方はこちらの記事をお読みください。
私はどうしても建築物の方に目が行ってしまうのですが、ネットで調べると鶏肉が絶品で年の瀬になると長蛇の列ができるそうです。機会があれば鶏肉を試してみたいと思っています。
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(つきじ宮川本廛:うなぎ「宮川」の総本山)
この「宮川食鳥鶏卵株式会社」のすぐそばに、明治26年(1893年)創業のうなぎの老舗「つきじ宮川本廛」(つきじみやがわほんてん)があります。
うなぎ専門店「宮川」は東京散歩をしているとよく見かけますが、これらの「宮川」はこの「つきじ宮川本廛」の暖簾分けでできた店だそうで、現在では首都圏の宮川(つきじ宮川のれん会)の総本山となっています。
(前田医院:小林多喜二死亡確認の病院)
さらに平成通りを進み、路地を左に曲がると「前田医院」があります。
ここは、昭和8年(1933年)2月、プロレタリア文学作家・小林多喜二が築地警察署内で特高警察に尋問(拷問)され運び込まれた病院です。
この「前田病院」で小林多喜二の死亡が確認・記録されましたが、それは警察署内で死亡したのではなく、病院内で死亡したことにしようとする特高警察の思惑があった由です。
この尋問はかなり凄惨なものであったようで、ネットで「小林多喜二」を調べると拷問され腫れ上がった遺体の写真が検索できます。
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(築地橋)
さらに進むと、「築地橋」がありますが、
渡らずに左に曲がります。
(土佐藩築地邸跡)
中央区役所がありますが、
中央区役所の脇に「土佐藩築地邸跡」の説明板があります。
この地には、土佐藩山内家の中屋敷ないし下屋敷があったこと、坂本龍馬がこの藩邸に寄宿していたことなどが書かれています。
坂本龍馬はこの土佐藩邸に居住しながら、現在の中央区八重洲にあった「千葉定吉道場」で修行し、「北辰一刀流長刀兵法」の目録を伝授されました。
その、「千葉定吉道場跡」の説明板が東京駅(鍛冶橋)付近にあります(下の写真)。
この「土佐藩築地邸跡」から「千葉定吉道場跡」までは歩いて15分弱で行けますので、江戸時代の人にとっては至近距離であったと思います。
なお、「中屋敷」は主に隠居した主や成人した跡継の居住場所、「下屋敷」は火事の際の避難場所や客人のもてなしの場所などに使われていましたが、「中屋敷」・「下屋敷」は固定されたものではなく、時代によって入れ替わることがあり柔軟に利用されていました。
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(救世軍渡来記念の碑)
さて、平成通りに戻り築地橋を渡ると「救世軍渡来記念の碑」があります。
救世軍とは、福祉事業・医療事業・教育事業などを行うイギリス発祥のキリスト教の教派で、軍隊を模した組織で活動しています。
昔は、救世軍の信者が三脚に鍋を吊るした「社会鍋」で募金活動をしている姿をよく見かけました。
現在の本部は千代田区神田神保町にあります(下の写真)。
東日本大震災の復興支援などを行っているようです。
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次回は「平成通りを歩く」の最終回になりますが兜町まで歩きます。
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