麻布台から麻布十番に下る(散策):西久保八幡神社/外務省飯倉公館/狸穴坂/鼠坂/植木坂
- 2019/02/07
- 11:07
前回の「麻布・我善坊谷を散策」では、
地下鉄・六本木一丁目駅から我善坊谷(がぜんぼうだに)を散策。我善坊谷にある歴史的な遺構を訪れ、
その歴史的な遺構が、森ビルによる六本木ヒルズの再開発でみられたような手法によって喪失してしまう恐れがあることを見てきました。
今回は、「麻布台から麻布十番散策」の第2弾として、大名屋敷のあった麻布台地の高台から麻布十番に通じる2つの坂道を下ってみたいと思います。
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(西久保八幡神社:江姫ゆかりの神社)
我善坊谷を歩いていくと、南側に「地形と歴史を変えた六本木ヒルズ(散策)」の「我善坊谷での再開発」の章でご紹介した、西久保八幡神社に通じる階段があります。
この階段は、記念碑に書かれているように(下の写真)、我善坊谷地区の人達が昭和2年(1927年)に作った階段(北参道)ですが、
地上げにより我善坊谷地区の住民がいなくなった現在は荒れ果てた状態になっています。
「西久保八幡神社」は、源頼信が石清水八幡宮から勧進して霞が関に建立し、その後太田道灌が江戸城を建設したときに現在地に移転してきたと言われています。
神社の裏には縄文時代の貝塚も発見されています。
境内内を歩いていると、下の写真のような大砲の砲弾が無造作に置かれていて驚いたのですが、
日清戦争あるいは日露戦争の勝利の際、神社に奉納された砲弾が何らかの事情でここに置かれているのではないかと推測しています。
また、「西久保八幡神社」は徳川秀忠に嫁ぎ、家光の母となった江姫(崇源院)との関わりが深く、徳川家康と秀忠が関ヶ原の戦いに臨むに際し、戦勝を祈願して江姫は当社を参拝したと伝えられています。
このため、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」が放映されていた時期は、多くの観光客がこの「西久保八幡神社」を訪れていたそうです。
なお、前回の「麻布・我善坊谷を散策」で書いたように、
江姫は亡くなった後、土葬が通常であった江戸時代には非常に珍しい火葬によって葬られましたが、江姫の遺体は、我善坊谷を通って、現在の六本木墓苑付近で荼毘に付されました。
江姫の遺体がなぜ火葬にされたのかは今でも謎に包まれています。
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(ノアビル)
「西久保八幡神社」から「ノアビル」に向かいます。
「ノアビル」は上の写真のように非常に変わった形をしているため、この地区のランドマーク的なビルになっていますが、
「渋谷散策(3)」でご紹介した「松濤美術館」(下の写真)を設計した白井晟一(しらい せいいち)によって設計されました。細長い入り口の装飾などが似ていますね。
(ロシア大使館)
この「ノアビル」前の「外東苑通り」を六本木方向に歩いていきます。
すると、左側にロシア大使館があります。この地は、江戸時代は三春藩秋田家下屋敷で、明治になると鍋島子爵邸となった場所です。
日本とロシアとは様々な外交問題を抱えているため、不測の事態に備えて警備が厳重にしかれています。
(日本郵政グループ飯倉ビル)
右手には、下の写真のようなレトロな建物が見えてきます。
これは「日本郵政グループ飯倉ビル」です。
江戸時代は米沢藩上杉家中屋敷、明治時代は徳川(紀州藩)公爵邸であった場所で、後で述べる「外務省飯倉公館」までの敷地が米沢藩の中屋敷(徳川公爵邸)でした。
江戸時代の大名屋敷がいかに広大な敷地であったか、また(前回の「麻布・我善坊谷を散策」で書いたように)我善坊谷からのアクセスが何故ないのかが、ここを歩いているとよく分かります。
後で述べますが、この界隈に住んでいた島崎藤村は、「大東京繁昌記」(昭和3年刊)で、次のように書いています。
「狸穴、飯倉片町、六本木へかけての三河台あたりは、(明治末年頃は)お屋敷町で至極物静かな上品な通りでした。(中略)殊に徳川邸は狸穴町停留所から飯倉片町停留所に至るまでの長い長い塀が続いて居り、其の塀の内は、家令や家従や家扶持達の家で、別に一つの町を形づくっていました。」(「微地形散歩」内田宗治著(実業之友社)より引用)
当時は、今の六本木ヒルズあたりは麻布の辺境地で人もまばらでしたが、この麻布台付近はお屋敷町だったことが伺える文章です。
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(外務省飯倉公館)
「日本郵政グループ飯倉ビル」に隣接するのが、「外務省飯倉公館」です。
外務本省は霞が関の官庁街にありますが、この「外務省飯倉公館」では大臣レベルのレセプションや外交交渉に使われています。
また、「芸能人・文士の家を探訪しながら成城学園散策(2)」でご紹介した、近代的な数寄屋造りの設計者・吉田五十八(よしだ いそや)がこの「外務省飯倉公館」を設計しました。
(狸穴坂)
この「外苑東通り」から麻布十番に通じる「狸穴坂」(まみあなざか)を降りてみます。
途中に「アメリカンクラブ」があります。
この「アメリカンクラブ」は上でご紹介した「ロシア大使館」と隣接しており、この位置関係は「ロシア大使館」が「ソ連大使館」だった時代と変わっていません。
米ソ冷戦というアメリカとソ連が熾烈な戦いをしていたときに、「ソ連大使館」と「アメリカンクラブ」が隣接した場所に置かれていて、とても面白い構図だと思っていました。
この狸穴坂には下の写真のような木造の家があります。
昔は木造の家がもっとあったのですが今はお洒落で近代的な家が多くなりました。
それでも坂下に降りると、下の写真のような魚料理の店や野菜屋があり、わずかですが下町情緒を残しています。
(鼠坂)(植木坂)
この坂下を右に行くと「狸穴公園」があり、
狸穴公園横に「鼠坂」、「植木坂」があります。
坂の途中には、島崎藤村が大正7年(1918年)から昭和11年(1936年)まで住んだ旧居跡の碑が置かれています。
島崎藤村は最後の長編小説「夜明け前」をここで完成させました。
また、「大東京繁昌記」(昭和3年刊)でこの界隈のことをいきいきと描いたことは上で述べたとおりです。
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これで、麻布台の高台界隈の記事を終え、次回は、麻布十番に行って、童謡「赤い靴」のモデルとなった「きみちゃん」の悲話について書いてみたいと思います。
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