観光名所・東大キャンパスを散策:高崎屋/ハチ公像/東大農学資料館/向稜碑/朱舜水先生終焉之碑
- 2018/12/17
- 09:45
今回は文京区にある東大キャンパスを散策したいと思います。
東大(東京大学)は、加賀百万石の前田家上屋敷、水戸藩中屋敷など大名屋敷の跡地に建てられましたので、これら大名屋敷の遺構がある他、
弥生土器が出土した場所、安藤忠雄・隈研吾設計の建築物、博物館(無料)などを見学することができます。
また、合格祈願のシールを貰うこともできます。
このように、東大は古代から現代までの史跡や建築物を一日かけて楽しむことができる隠れた「観光名所」といえるかと思います。
それでは、東大キャンパスを散策してみましょう。
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(将軍御成道 岩槻街道)
まず、地下鉄南北線・東大前駅を降りて、
農学部の門である「農正門」に向かいます。
東大キャンパス内に入る前に、本郷通りを渡ってみます。
本郷通りを渡って、右側のバス停「東大農学部前」の横に、
目の前を通っている現在の本郷通りが、徳川将軍が日光東照宮にお参りする際に使った「将軍御成道 岩槻街道」であったとの説明板があります。
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(高崎屋)
さきほど本郷通りを渡った方へ戻ると、下の写真のような酒屋があります。
江戸時代から続く老舗の酒屋「高崎屋」です。
「since 1751」と書かれていますので、宝暦元年(1751年)からの創業であることが分かります。
お店の方の許可を得て、店内にある昔の看板の写真を撮らせていただきました。
(追分一里塚跡)
この高崎屋の裏手には下の写真のような「追分一里塚跡」の説明板があります。
ここにかつて一里塚があったこと、ここで将軍御成道(岩槻街道)から分かれて、中山道の最初の一里塚があったことが書かれています。
(キャンパス地図と合格祈願シール)
それでは、いよいよ東大に入って行くことにしましょう。
門を通って左側にある守衛室の脇に、キャンパス内の地図と記念シールが置かれています。
白黒印刷の地図です(左の写真)。実は、東大・龍岡門脇にある広報センターでカラーの地図(右の写真)を貰うことができるのですが、
龍岡門(たつおかもん)は、丸ノ内線又は大江戸線の本郷三丁目駅の近くにあるので、本郷三丁目駅から出発する場合には、広報センターでカラーの地図と東大内の解説をしたパンフレット(下の写真)を貰ってから散策してもいいかと思います。
白黒地図が置かれている箱にはいろいろなシールが置かれていますが、
この合格祈願のシールは需要があるのではないでしょうか(^^
東大には赤門を始め多くの通用門がありますが、このようなシールを置いているのはこの農正門だけのようです。
なお、東大構内は東工大キャンパスを散策で歩いた東工大などの他の国立大学と同じく、自由に入ることができます。私が行ったときは保育所の方が幼児を遊ばせていました。
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(上野英三郎博士とハチ公像)
農正門を入って、左側を見ると「上野英三郎博士とハチ公像」があります。
ハチ公といえば渋谷のハチ公が有名ですが、ハチ公を飼っていた上野英三郎博士は東京帝国大学農学部の教授で、
当時は駒場にあった農学部への通勤や出張の際、ハチ公は渋谷駅まで送り迎えをしていました。
大正14年(1925年)5月21日、上野博士が大学構内で急逝した後も、ハチ公は死ぬまでの10年間、毎日渋谷駅に通い続けました。
この話は有名ですが、飼い主が東大教授であったことはあまり知られていなかったため、このことを知らしめようと、平成24年(2012年)に「上野英三郎博士とハチ公像」が東大構内に建てられました。
夕刻には照明が点けられ、また違った印象になります。
なお、渋谷駅前のハチ公は左耳が垂れていますが、これは野犬に噛みつかれたための後遺症だそうです。
東大構内のハチ公は耳が垂れていませんから、野犬に噛みつかれる前のものと思われます。
ご参考までに、渋谷区が運営するコミュニティーバスは「ハチ公バス」といい、
ハチ公のデザインが描かれています。
なお、渋谷散策については、5回のシリーズで連載したことがありますので、ご関心のある方は渋谷散策(1)からお読みください。
(東大農学資料館)
農正門の右手にある「東大農学資料館」に寄ってみます。
ハチ公の美談が新聞で報じられ、昭和9年(1934年)に渋谷駅前に銅像ができ、翌年亡くなったハチは青山墓地にある上野博士の墓に葬られ、剥製が国立科学博物館に保存されていますが、
そのハチ公の臓器や上野英三郎博士の像がこの「東大農学資料館」に展示されています。
説明書には、ハチ公の死因はフィラリア症と癌だったことが書かれています。
(向稜碑)
この「東大農学資料館」を奥に進んでいくと、「向陵碑」があります。
私達が今歩いている弥生キャンパス(農学部キャンパス)は、かつて旧制第一高等学校がありましたが、
昭和10年(1935年)7月に旧制第一高等学校と上野博士が教鞭をとっていた東京帝国大学農学部が敷地交換し、
現在の東大農学部となりました。
この「向稜碑」は、弥生の地を愛した学生の決別の思いを刻んだ碑です。
(朱舜水先生終焉之碑)
言問通りの向う側にある本郷キャンパスには下の写真のような陸橋を渡っていきますが、
その陸橋の脇に、「朱舜水先生終焉之碑」が置かれています。
以前は、「上野英三郎博士とハチ公像」の少し先にありました。このため、さきほど入手した地図には昔の位置が記されていますが、現在はここにあります。
明時代の中国の儒学者であった朱舜水(しゅしゅんすい)は、明が滅亡し清朝が成立した時に日本に亡命してきました。
当時多くの中国人の学者が日本に亡命し、大名家で彼らを招聘していましたが、この朱舜水は水戸藩主の徳川光圀が招聘しました。
朱舜水は水戸学に大きな影響を与えたと言われており、後の明治維新の原動力ともなりました。
説明板には、東大農学部の南東にあった水戸藩中屋敷で過ごしたこと、日本渡来250年祭にあたり朱舜水記念会がこの碑を建てたと書かれています。
これで、東大弥生キャンパスの散策を終わり、次回は「弥生式土器」の発見地を探してみます。
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