勝海舟は西郷隆盛と会見するために池上本門寺に赴いたのか?:松浦玲/子母沢寛
- 2018/12/14
- 10:17
相棒「花の里」ロケ地と勝海舟邸跡を散策及び洗足池を散策で「勝海舟は西郷隆盛と会見するために池上本門寺に赴いたのか?」は別記事でご説明すると書きました。
今回は、「大岡山・洗足池散策」の最終回として、私が洗足池界隈に興味を持つきっかけとなった、この謎について書いてみたいと思います(下の写真は、「勝海舟記念館」建設中の壁に描かれていた勝海舟)。
結論としては、
「池上本門寺に赴いたが、それは江戸無血開城の談判の約1ヶ月後で、その後の事後処理のために赴いたものである」
「その時、西郷隆盛との直接会談があった可能性はあるが確定的なことは分からない」
というものです。
今回の記事は、今までの東京散策と異なり、やや固い記事になっていますが、お読みいただければ幸いです。
なお、この記事を書くにあたっては、大田区立郷土博物館の学芸員の方に大変お世話になりました。
学芸員の方には、いろいろいな参考資料を教えていただいたのですが、本記事は私が入手できた「勝海舟」(松浦玲著。筑摩書房)、「多摩川32号(復刻第20号)」を基にして書いています。
また、参考情報として、時代考証が確かと思われる「勝海舟」(子母沢寛著。新潮社。昭和40年4月30日発行版)も参照しました。
本記事の内容の是非並びに事実誤認・間違い等は全て私の責によります。
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(会談場所に関する従来の通説)
相棒「花の里」ロケ地と勝海舟邸跡を散策でも書きましたが、
慶応4年(1868年)3月15日の新政府軍が考えていた総攻撃直前の3月13日と14日に行われた勝海舟と西郷隆盛の2日間の会談場所については諸説あり、
どちらも、三田の薩摩藩抱屋敷で行われたという説、
13日が高輪の薩摩藩下屋敷、翌14日が三田の薩摩藩抱屋敷で行われたなどの説がありますが、
いずれも薩摩藩邸(現在の港区内)で会談が行われたというのが通説になっています。
なお、港区の尾根道を歩く(最終回)でも掲載しましたが、港区三田の三菱自動車ショールーム前には「西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑が建っています(下の写真)
(洗足池の説明板:勝海舟が池上本門寺に赴いたとの説明)
大田区にある洗足池には、勝海舟が晩年過ごした別邸(洗足軒)の説明板が大森第六中学校の敷地前にあり、
勝海舟夫妻の墓所(下の写真)にも、
その説明板があります。
問題はその説明板に、勝海舟が西郷隆盛と会うために、大田区池上にある池上本門寺に赴いたと書かれていることです。
その部分を引用すると以下のとおりです。
【勝海舟別邸の説明板(洗足風致協会の説明)】
「官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです(中略)通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、(中略)土地を求めました。」
【勝海舟夫妻墓所の説明板(大田区教育委員会の説明)】
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891年)に別邸を構え」
【池上本門寺・松濤園の説明】
また、池上本門寺にある庭園・松濤園(しょうとうえん)には、「西郷隆盛・勝海舟会見の碑」があり、説明板には以下のことが書かれています(松濤園は一部期間を除き非公開ですので、残念ながら写真を持ちあわせてません)。
「慶応4年(1868年)3月、倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒幕軍の首席参謀であった西郷隆盛と、幕府軍の勝海舟がこの地で会見をし、江戸城無血開城の交渉を行った。(中略)この石碑は昭和16年に建てられたもので、西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫になる。なお、本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた」
(通説との兼ね合い:池上本門寺に行ったのは江戸開城後の事後処理のため)
大田区教育委員会等が書いている「池上本門寺に赴いた」との説明と従来の通説をどう考えるかですが、
歴史学者で勝海舟の研究家である松浦玲(まつうら れい)の著作「勝海舟」(筑摩書房。下の写真)によれば、
以下のように書かれています(374ページ)。
「(筆者注:四月)八日、大久保一翁が寛永寺大慈院の慶喜に呼ばれ、勝安房ともども池上本門寺の東海道先鋒総督府へ行って参謀と談ぜよとの指示を受けた。(中略)一翁は勝安房のところへ手紙を寄越して慶喜の指示を伝え、明朝御宅へ伺うから相談の上で一緒に池上へ行こうと述べた。この手紙は現存する。(中略)勝安房と一翁は、それ(筆者注:陸海軍の要望書)を持って池上本門寺へ行く。先鋒参謀の海江田と木梨が応接した」(太字は筆者)
として、4月9日に勝海舟と大久保一翁が徳川慶喜の指示によって池上本門寺に行ったと書かれています。
これが事実とすれば(私は事実だと思いますが)、上に挙げた【別邸の説明板(洗足風致協会の説明)】と【池上本門寺・松濤園の説明】に書かれている、
「江戸無血開城の交渉のための会談が行われた」との記述(ネット上にも同様の説明が多くあります)は、正確には、
「無血開城の交渉はすでに3月13日、14日に薩摩藩邸で行われ、その後の事後処理(幕府の武器・軍艦明け渡しの処理)の会談のために4月9日に池上本門寺に赴いた」ということになろうかと思います。
(西郷隆盛との直接会談はあったのか?)
さらに、勝海舟が西郷隆盛と直接会談したかどうかについては、松浦玲は「先鋒参謀の海江田と木梨が応接した」としか書いていません。
これについては、(1)池上本門寺・松濤園にある「西郷隆盛・勝海舟会見の碑」は西郷隆盛の西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫であること、(2)勝海舟と西郷隆盛は固い信頼関係にあったことから、直接会談があった可能性はあるとは思いますが確定的なことは分かりません。
今後の研究で解明が進むことを期待します。
なお、勝海舟は当時の基幹道であった東海道ではなく、脇街道であった中原街道をなぜ使ったのかということですが、
東海道沿いには反幕府勢力が跋扈していましたので、安全を考え中原街道を使ったと考えられます。後述しますが、中原街道でさえ、勝海舟は刺客に狙われています。
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(参考情報:子母澤寛の解釈は?)
小説ですので参考情報としての扱いになりますが、歴史作家・子母沢寛(しもざわ かん)の著作「勝海舟」(昭和40年4月30日発行版)を読むと、4月9日、10日に、勝海舟が池上本門寺に談判のために赴いたことが記されています(第5巻275~282ページ。第6巻「勝海舟年譜」333ページ)(下記注参照)。
さらに、子母沢寛は勝海舟と大久保一翁が海江田と木梨に会ったことは書いていますが、西郷隆盛と直接談判したことは書いていません。
子母沢寛は「勝海舟」を昭和16年10月から戦後の21年12月まで、5年間に渡り新聞に連載していましたので、この時点で「勝海舟が薩摩藩邸での江戸開城の交渉後、その事後処理のために池上本門寺に赴いた」ことを知っていたことになります。
また、勝海舟が中原街道を通ったのかという点について、子母沢寛の「勝海舟」では、
往路は、「南品川、鮫洲の手前から右へ入って、ここから本門寺までは一里半」と書かれています(「勝海舟」第5巻275ページ)。
南品川までは東海道を使い、その後は中原街道を使ったとすると、とても「一里半(約5.9km)」では池上本門寺には行けませんので、中原街道を想定していません。
復路は、「山から斜めに南品川へ出る近道を避けて、真っ直ぐに鈴ヶ森へ下りて来た。若葉の間をぬって、海を見ながら、海道を江戸に帰るつもり」(「勝海舟」第5巻279ページ)と書かれていて、中原街道ではなく東海道を通ったという記述になっています。
いずれにしても、子母澤寛は「中原街道説」をとっていませんが、勝海舟が洗足池畔に別邸をわざわざ構えたことや後述の資料を踏まえれば、私は「中原街道説」が正しいと思います。
(注)新潮社の文庫本版とはページ数が異なります。また、同文庫本には「勝海舟年譜」は収録されていません。なお、私の保有している「勝海舟」の第6巻「勝海舟年譜」(333ページ)には、「四月九日、十月池上本門寺にて先鋒総督府に江戸城引渡しの事を相談する」と書かれていますが、「十月」は「十日」の誤記と思われます。
(勝海舟は洗足池に立ち寄ったのか?)
それでは、【墓所の説明板(大田区教育委員会の説明)】に書かれている「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1899年)に別邸を構え」の記述
はどうでしょうか。
これについては、興味深い資料があります。
大田区郷土の会が編集・発行した「多摩川32号(復刻第20号)」(下の写真)ですが、
その中の「地域の古老に聞く」という記事で、岸田政光という古老が先祖から聞いた話を語った内容をテープ起こしした記事です。
なお、岸田政光という方は、洗足池の源流を探る(暗渠散歩)で書いたように、この地域の有力者一族である岸田家の方と思われます。
勝海舟を追ってきた5,6人の刺客から逃れるために、勝海舟が洗足池畔にある御松庵の入り口で茶店をやっていた醍醐金次郎という人に「(勝海舟は)目黒に行った」と嘘を言って(刺客を)追い払って欲しいと頼んだ後の話です。
「5,6人の刺客はそちらに追い払った。やり過ごしておいて勝は、“俺を本門寺へ案内してくれ”それで醍醐金次郎さんが案内して本門寺へ行ったという話がある。で、この話はまんざら嘘ではない。氷川清話と言う話がある。(中略)その本(筆者注:氷川清話)の中に“俺を本門寺まで案内した金次郎は、まだ達者かな”とその記者に問いかけていますね。あの記事の中に出てきますね。どこでどうしたか分からないが海舟を本門寺へ案内したことは確実なんです」
この資料はいわゆる文献資料ではなく、口承で伝わっている話なのですが、当事者でないとわからないようなことがかなり詳しく述べられており、傍証として十分耐えられるものだと思います。
勝海舟別邸の洗足軒についても興味深い部分がありますので、以下引用します。
「農家そのものなんです。(中略)これを勝さんは洗足軒といっていた。時々遊びに来る訳で、この池が好きで池の周りを散歩する。池の周りで子供達が鮒を釣っていると「どうだ小僧釣れるか」といったような言葉をかける。勝さんという人は侍の四角張った言葉を使わないと私の祖父からも、聞いております。晩年は来られなかった」
「(洗足池の別邸に)時々遊びに来る訳で」と書かれていますが、相棒「花の里」ロケ地と勝海舟邸跡を散策でご紹介した、赤坂にあった「明治時代の勝海舟邸」に住みながら、時々この地を訪れていたことが伺えます。
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幕末は動乱の時代で、未だに歴史的評価が難しい時代ですが、今後も新しい史料によって研究が進むことを期待します。
今回の記事で「大岡山・洗足池散策」シリーズを終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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