洗足池の源流を探る(暗渠散歩):清水窪湧水/清水窪流れ/貉窪流れ/出穂山流れ
- 2018/12/10
- 10:41
前回の黒柳徹子(トットちゃん)の実家はどこにあった?では、あまり知られていない千束(洗足)・長原地域を歩きながら、黒柳徹子(トットちゃん)の実家がどこにあったのか、
黒柳徹子の自伝的ノンフィクション「窓際のトットちゃん」を引用しつつ推理したり、この地域の見どころを見てきました。
今回は、大岡山・洗足池散策の第4弾として、洗足池に注ぎ込んでいた水路を辿ってみたいと思います。
本ブログでは、初めての本格的な暗渠散歩となります。
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(岸田勇氏の資料)
洗足池に注いでいた水路(小川)を辿るにあたっては、「洗足池 洗足風致協会創立六十周年記念誌」(平成7年12月発行。下の写真)に掲載された、岸田勇氏の記事を参考にさせていただきました(この他に、明治・大正時代の地図も参考にしています)。
まず、岸田勇氏が描いた大正8年(1919年)頃のスケッチです(見やすくするために、水色で着色しました)。
次に、同氏の記事の抜粋を掲載します。やや長い抜粋ですが、貴重な資料ですので引用します。
「洗足池の水源は私の知る範囲では四ヶ所にある。池を中心とした北方に清水窪の湧水(北千束一丁目の北)、北東方に貉窪(むじなくぼ)の湧水(北千束二丁目)、東南の方には長原(ながはら)の湧水(南千束一丁目)、又西方は出穂山(でぼやま)の湧水(南千束三丁目)があった。(中略)
貉窪の湧水の流れと清水窪の湧水の流れが桜山の下近くで合流し、水量の豊かな流れとなって池に流入していた。
(中略)長原の湧水は長原(中原)街道と現在環七との交差点の北側で品川区に近い北側の台地の下、窪地の竹藪の中から湧き出していた。貉窪の湧水は北千束二丁目の北東端で現環七西側の窪地で杉山の中から湧き出していた。又、清水窪の湧水は北千束一丁目の北端で小路一筋が目黒区と大田区の境となっている断崖の下から湧き出していた。
(中略)これらの各湧水の清流には目高、小鮒、どじょう、川蝦(えび)、川蜷(にな)、淡水ハゼなど、又、田には蛙や田螺(たにし)も沢山いた、又、夏の夜は蛍も沢山飛んでいた」
なお、この地域における岸田家は地元の昔からの有力者一族であるらしく、東工大キャンパスを散策でご紹介した赤松稲荷神社の玉垣には、寄進者である岸田家の名前がありました。
4つの「流れ」の名称は岸田勇氏の記事に基づき、①「清水窪流れ」、②「貉窪流れ(むじなくぼながれ)」、③「長原流れ」、④「出穂山流れ(でぼやまながれ)」とします。
(① 清水窪流れ)
まず、今でも湧水がある清水窪流れを辿ってみます。数十分の散策で源流まで行き着くことができるのが東京散歩の面白いところです。
東工大キャンパスを散策でご紹介した大岡山駅の商店街を北に歩いて、
右に曲がると、清水窪弁財天があり、
清水窪弁財天の左側に湧水があるのが見られます(右の写真はその湧水を拡大したもの)。
この湧水は「東京の名湧水57選」にも選ばれていますが、湧水量が足りないため、水道水の補給、ポンプ循環が行われています。
下の写真は、目黒区との区境にある高台から撮った写真です。
岸田勇氏が書いているように「清水窪の湧水は北千束一丁目の北端で小路一筋が目黒区と大田区の境となっている断崖の下から湧き出して」います。
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ここから流路を辿ってみましょう。清水窪弁財天を出るとすぐに暗渠になりますが、
比較的容易に谷筋を辿れます。
清水窪小学校脇を通っていくと、
東急大井町線・目黒線の路線にぶつかります。かつては、この路線の下を小川が流れていたと思われます。
東急線を超えた向こう側にも、はっきりとした水路跡が見られます。現在は公園になっていて、
さらに進むと、井戸があります。
このような公園や井戸は、かつて水路があったとことによく見られる「暗渠サイン」です。
下の写真のように、さらに進んでいくと、
「桜山」の下で、開渠となって水が姿を表し、
この水路が洗足池に注ぎ込みます。
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(② 貉窪流れ)
岸田勇氏によれば、「貉窪(むじなくぼ)の湧水の流れと清水窪の湧水の流れが桜山の下近くで合流し、水量の豊かな流れとなって池に流入していた」
と書かれていますので、この合流地点と思われる桜山の下から、②貉窪流れを上流に辿ってみます。
左手に「大田区北千束特別出張所」を左に見ながら右に曲がります。
ここは「稲荷坂」といいますが、
左手にはっきりとした水路跡が見られます。
この水路跡を辿って左に曲がります。
東急・大井町線のガードをくぐり、
さらに進むと、T字路がありますが、その正面に下の写真のような崖があります。
ここも貉窪流れの水源の一つと考えられますが、岸田勇氏によれば、「北千束二丁目の北東端で現環七西側の窪地で杉山の中から湧き出していた」とありますので、さらに上流を目指します。
このT字路を左に曲がり、
十字路を右に曲がります。
すると、環七につながるT字路がありますので、それを左に曲がります。
環七交差点の手前を右に曲がると、
下の写真のような、環七西側にある崖があります。
この部分が岸田勇氏のスケッチ及び記述にちょうど該当する部分ですので、ここが貉窪流れの第一の源流部分と思われます。
大正時代には、現在の清水窪湧水に見られるような光景があったのではないでしょうか。
(③ 長原流れ)
長原流れの部分は宅地化が進んでいますが、それでもなんとか遡ることが可能です。
洗足池を散策でご紹介した水生植物園の前に、下の写真のような細い通路がありますが、ここが洗足池に注いでいた長原流れが暗渠化された部分です。
地元の方に聞いたところ、確かにこの部分に水が流れていたとのことでした。
さらに遡っていきます。
十字路に突き当たりますが、昭和初期の地図を見ると右手の区域は「釣堀」と書かれていました。長原流れの水を釣り堀に使っていたと思われます。
なお、上の地図では、現在の北千束駅が「洗足公園駅」となっていますが、昭和11年(1936年)に、現在の「北千束駅」に名称が変更されました。
黒柳徹子(トットちゃん)の実家はどこにあった?でトットちゃん(黒柳徹子)のことを書きましたが、トットちゃん(黒柳徹子)の誕生日は昭和8年(1933年)ですので、トットちゃんが自由が丘のトモエ学園に通っているときの駅名は「北千束駅」だったはずです。
さらに進むと、オリンピックというスーパーマケットの裏側部分に下の写真のような崖があります。ここは「長原流れ」水源の一つだったと思われます。
岸田勇氏によれば「長原の湧水は長原(中原)街道と現在環七との交差点の北側で品川区に近い北側の台地の下、窪地の竹藪の中から湧き出していた」とありますので、
環七を渡って地形の様子を見ると、スケッチの部分と一致する辺りに、やや窪んだ窪地があります。この付近が「長原流れ」の第一の源流部分と考えられます。
(④ 出穂山流れ)
「④出穂山流れ」が最も辿りにくい流れとなっています。
洗足池を散策でご紹介した「千束八幡神社」の鳥居付近の道に、やや窪んだ部分がありますので、ここが「④出穂山流れ」だったと思われますが、
今ではマンションが建っていて遡ることができません。
マンションの裏手に回ると、川の流れの痕跡のようなところもありましたが、それ以上は民家が建っていて進めませんでした。
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渋谷散策(4)で「春の小川」作詞のモデルとされる宇田川上流の河骨川(こうほねがわ)の暗渠を散策した時に(下の写真は「春の小川歌碑」と電柱に掲げられている「春の小川」の文字)、
私は「宇田川の暗渠跡を歩くのは私にとっては楽しいというよりも、今はなき「春の小川」とそこに生きていた川魚などのかわいらしい生物への鎮魂の思いを抱く散策です。」
と書きました。
今回の洗足池に注いでいた水路(小川)の暗渠散歩も全く同じ思いで散策しました。
岸田勇氏が「これらの各湧水の清流には目高、小鮒、どじょう、川蝦(えび)、川蜷(にな)、淡水ハゼなど、又、田には蛙や田螺(たにし)も沢山いた、又、夏の夜は蛍も沢山飛んでいた」
と書かれているように、都市化が進み、暗渠化されていなくなったこれら生き物や清らかな清流に思いを馳せた散策でした。
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今回は若干マニアックな記事になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は、「大岡山・洗足池散策」の最終回として「勝海舟は西郷隆盛と会見するために池上本門寺に赴いたのか?」について書きたいと思います。
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