相棒「花の里」ロケ地と勝海舟邸跡を散策:赤坂氷川神社/四合稲荷神社/日銀氷川分館
- 2018/11/20
- 08:53
前回の赤坂の「坂」を散策では、赤坂、溜池の由来をお話し、溜池山王駅付近を散策しました。
今回は、赤坂散策シリーズの第2弾として、赤坂の奥に入っていきます。
(テレビドラマ相棒「花の里」)
前回の赤坂の「坂」を散策で、相棒でおなじみの「花の里」の階段があると書きました。
この階段のある坂の名前は「福吉坂」といい、福岡藩黒田家と人吉藩相良家の屋敷が近隣にあたったため、「福岡」と「人吉」から一文字ずつ取った名前です。
この福吉坂の上から撮った写真とテレビの画面を掲載します(右の写真の出典はテレビ朝日。テレビの画面は不鮮明ですがご了承下さい)
実際は「花の里」というお店はなく、ロケ時に「花の里」という看板を出しているようです。
また、「花の里」店内の撮影はセットで撮影されているようです。
☆☆☆
☆☆☆
(明治時代の勝海舟邸跡)
この「花の里」ロケ地の階段を登ってさらに進むと(若干右、左に曲がりますが)、
「氷川小学校跡地」(下の写真)に建っている港区立の施設の一角に、
「勝海舟の像」が建っています(傍らに立っているのが坂本龍馬です)。
ここは勝海舟の赤坂での3度目の住居跡(明治時代の勝海舟邸跡)で、
徳川家の静岡移封に伴い静岡に転居していた勝海舟が明治5年(1872年)に明治新政府に出仕を命じられ転居し、明治32年(1899年)に死去するまで住んだ住居跡です。
☆☆☆
海舟は晩年、大田区にある洗足池付近(現在の大田区立大森第六中学校敷地内)に「洗足軒」という別荘を建てて過ごしましたので、
この赤坂の本邸と洗足池の別邸とを行き来していました。
この洗足風致協会による上の説明板によれば、「官軍の参謀西郷隆盛と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴いた」と書かれていますが、
通説では、勝海舟と西郷隆盛の会談は、薩摩藩邸で慶応4年(1868年)3月13日と翌14日の2回行われたとされています。
具体的な場所については、諸説あり、
13日、14日の2回とも、港区の尾根道を歩く(最終回)でご紹介した、三田にあった薩摩藩蔵屋敷で行われたという説(下の写真は、港区三田にある「西郷南洲・勝海舟会見之碑」です)、
13日は港区高輪の薩摩藩下屋敷、14日が港区三田にあった薩摩藩蔵屋敷との説もあります。
どの説をとるにしても、薩摩藩の屋敷で行われたというのが通説で、勝海舟が大田区にある池上本門寺に赴いたことについては通説にはなっていません。
これについては、調査中ですので別の記事でお話したいと思います。←「勝海舟は西郷隆盛と会見するために池上本門寺に赴いたのか?」で書きましたのでご関心のある方は、こちらの記事をお読みください。
☆☆☆
いずれにしても、洗足池は江戸時代より現在に至るまで景勝の地ですので、勝海舟が洗足池畔に別邸を建てたことは理解できます(下の写真は現在の洗足池の風景)
☆☆☆
なお、銅像を見ると、坂本龍馬が勝海舟の傍らにいます。
坂本龍馬は暗殺されて明治時代にはいないので、明治時代の勝海舟邸に坂本龍馬がいることは時代考証的にはおかしいのですが、そこはご愛嬌としておきます。
(南部坂)
さらに進むと、忠臣蔵で有名な「南部坂雪の別れ」の舞台である「南部坂」がありますが、
今回は、これ以上は進まず、赤坂氷川神社に向かいます。
☆☆☆
☆☆☆
(赤坂氷川神社)
赤坂氷川神社は、元々は現在の赤坂見附付近にありましたが、
八大将軍の徳川吉宗が亨保15年(1730年)に現在の地に移しています。
関東大震災、米軍による空襲を免れたため。当時の社殿等が残されている貴重な史跡です。都の有形文化財に指定されています。
境内にある大銀杏は樹齢400年以上と言われています。
また、境内には四つの稲荷神社を合祀した「四合稲荷神社(しあわせ いなりじんじゃ)」がありますが、勝海舟が名付けた名前です。
四つの稲荷神社を合祀し、「四合」と書いて、「しあわせ」と読みますが、勝海舟らしい粋な名前の付け方です。
(謎のお屋敷は日銀の分館だった)
この赤坂氷川神社のすぐそばに、下の写真のような大変立派なお屋敷があり、以前から不思議に思っていたのですが、
瓦の先端を見ると「日銀のマーク」が彫られています。
この「日銀のマーク」はお札にもありますね。
郵便受けの上には、「氷川分館」の小さな表札がありますので、このお屋敷は日銀の氷川分館であることが分かります。
平成25年(2013年)5月5日付けの日本経済新聞に、この日銀氷川分館の記事が写真入りで載っていました。その抜粋を以下引用します。
大雪の1月14日午後。休日返上で麻生太郎財務相、甘利明経済財政・再生相、白川方明日銀総裁(当時)が集まり、物価上昇率2%の目標導入を巡る政府と日銀の共同声明の文言を詰めた。場所は東京・赤坂の氷川神社そばの日銀氷川寮(分館)。日銀によると「業務上機密を要する会合等に使用するための施設」(速水優元総裁の国会答弁)である。
国の行政機関の資産売却が進められた時に、日銀も支店長社宅(大変立派な支店長社宅を全国各地に持っていました)や福利厚生施設を売却しましたが、赤坂の一等地にあるこの分室は売却しなかったようです。
(幕末の勝海舟邸跡)
この日銀氷川分室のある坂は「本氷川坂」と言いますが、
この本氷川坂を下っていくと、勝海舟が36歳から静岡に移るまで10年間過ごしていた赤坂での2番目の邸宅となった住居跡があります。
咸臨丸での渡米、西郷隆盛との会談、江戸城の無血開城など勝海舟が最も活躍した時期に住んでいた邸宅跡です。
現在はマンションとなり、碑と説明板が置かれています(続きます)。
☆☆☆
☆☆☆
次回は、軍都・赤坂の面影を探る(散策)です。
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙

